掲載時肩書 | 社会党委員長 |
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掲載期間 | 1965/08/03〜1965/08/24 |
出身地 | 宮城県 |
生年月日 | 1900/05/25 |
掲載回数 | 22 回 |
執筆時年齢 | 65 歳 |
最終学歴 | 日本大学 |
学歴その他 | |
入社 | 片倉製 糸工場 |
配偶者 | 紡績職場娘 |
主な仕事 | 大日本肥料、日本自転車、労組結成、労働・農民指導、市会議員、衆議院議員、社会党統一、委員長 |
恩師・恩人 | |
人脈 | 鈴木文治、吉野作造、池田恒雄、西尾末広・河上丈太郎・江田三郎(右)、鈴木茂三郎・加藤勘十(左)、浅沼稲次郎 |
備考 | 社会党の右派と左派の抗争劇を記述 |
1900年5月25日 – 1985年12月24日)は宮城県生まれ。政治家。1960年代から1970年代にかけて、派閥意識をむき出しにして、執拗に江田三郎と江田派を攻撃したが、この無意味な派閥抗争が社会党の基礎体力を奪ったことは否めず、社会党衰退の原因の一つをつくったといえる。また思想政策においても西欧型社会民主主義を提唱した江田ビジョンを葬り去りマルクス・レーニン主義に固執する等革新首長の増加などで勢いがあった左派陣営の機運に水を差し社会党を万年野党化させたという批判も根強く、田中元首相も「(佐々木さんが)江田君をつぶした時点で政権交代の目は潰えた。」と回想していた。党の委員長を目指すより、裏方として大衆的人気のあった江田を支えたほうが佐々木の能力を十分に生かせたのではないかという声もある。日本社会党副委員長、委員長を歴任した。
1.農民運動
私は貧農の三男生まれ、日雇い人夫や炭焼き人夫などもやった体験から、農民の苦悩は骨身に沁みて感じていたので、私が昭和5年(1930)10月仙台に帰ってからは、特に農民運動に関心がひかれた。
私は仙台の中央事務所を拠点として全県指導に乗り出し、昭和9年には池田恒雄氏(元参院議員)のほかに田中清逸氏を東京から招いて陣容を整備した。当時の農村は深刻な恐慌時代であった。地主、高利貸しの極端な搾取が重くのしかかり、これに反抗して立ち上がる農民組織運動には、官憲が治安維持法と行政執行法で仮借なく検束、留置、暴行をほしいままにした時代である。
したがって私の運動も必然的に被弾圧歴にならざるを得なかった。闘争目標は、①土地取り上げ絶対反対、②土地を働く農民へ、③借金の棒引き、④小作料の引き下げ、⑤差し押え競売反対、⑥弾圧諸法令の撤廃、⑦帝国主義戦争絶対反対などであったから、運動は官憲と常に衝突した。
2.留置場の拷問
私は昭和13年(1938)2月1日の朝5時ごろ、寝込みを踏み込まれて仙台警察署にあげられた。そしてその日のうちに亘理警察署に回された。その後は留置場にぶち込んだまま、約1か月の間取り調べもせず方々の警察をグルグルたらい回しするだけだった。留置場の生活はうすべりに薄いせんべい布団が一枚だけで、東北の真冬の寒さは骨身に沁みた。食事も監弁(かんべん)と称して、ようやく命をつなぐだけのものだった。朝は薄いみそ汁とくさい飯が一杯だけ。昼も夜もおかずらしいおかずはほとんどなかった。むろん差し入れなどは許されない。若かった私にとって、この空腹感は耐え難い苦しみだった。
それでも頑として私は組織のことについては口を割らなかった。すると竹刀で殴る、髪の毛を引っ張って引きずり回す、水をぶっかける、下腹部を蹴り上げる・・・ありとあらゆる暴力と責め道具を使って拷問にかけられた。それでも私は抵抗した。私は別に破廉恥罪で捕まったわけではないが、当時市会議員でもあったので、職務を執行できないのは市民に申し訳ないと考え、留置場の中から辞表を提出した。
3.社会党(右派と左派)の統一で再出発
昭和22年(1947)5月24日、社会党は連立政権で主導し片山哲内閣が成立した、西尾末広さんは副総理格の官房長官になったが、暫くして分裂した。分裂後の社会党は、左右両派の競争の中でそれぞれ党勢を拡大したが、特に左派社会党の躍進は目覚ましかった。2回の総選挙で衆議院の議席は16からら72に拡大した。しかし私は、このままいけば左派社会党は今後伸びるにしても、100名を突破するのは容易ではないだろう。これ以上分裂していては、いたずらに保守党を利するだけである。ここらで社会党は左右統一する以外にないという結論に達した。そこで次期政権担当を目標として統一への行動を開始した。
昭和30年(1955)1月両派社会党は同時に大会を開き、社会党統一実現に関する決議を採択し、社会党の統一公約として選挙を戦い、結果は左派89、右派67の議席を占め、社会党はさらに躍進した。そして同年10月統一大会を開催し、私は執行部に入り、鈴木茂三郎委員長、浅沼書記長の布陣で再出発した。
佐々木 更三 ささき こうぞう | |
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『日本社会党20年の記録』(1965年11月)より | |
生年月日 | 1900年5月25日 |
出生地 | 宮城県本吉郡 |
没年月日 | 1985年12月24日(85歳没) |
出身校 | 日本大学 |
前職 | 宮城一般労働組合委員長 |
所属政党 | (日本社会党→) (左派社会党→) 日本社会党 |
選挙区 | 宮城県第1区 |
当選回数 | 11回 |
在任期間 | 1947年4月26日 - 1976年12月9日 |
第5代 日本社会党中央執行委員長 | |
在任期間 | 1965年5月6日 - 1967年8月19日 |
佐々木 更三(ささき こうぞう、1900年〈明治33年〉5月25日 - 1985年〈昭和60年〉12月24日)は、日本の政治家。日本社会党副委員長、委員長を歴任した。