伊藤保次郎 いとう やすじろう

ゴム・セメント・鉱業

掲載時肩書三菱鉱業社長
掲載期間1959/08/09〜1959/08/28
出身地山形県鶴岡
生年月日1890/09/04
掲載回数20 回
執筆時年齢69 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他一高
入社三菱鉱業
配偶者同郷出身女学生
主な仕事生野鉱山>明延鉱山>尾去沢鉱山>本社、日本アルミニウム、日本精鉱、ビルマ(炭)インドネシア(石油)
恩師・恩人船田一雄、平沢幹
人脈佐藤喜一郎/実吉雅郎(一高友)、久留島秀三郎、宮本武之輔
備考尾去沢ダム決壊、趣味:釣り、酒豪で失敗談
論評

明治23(1890)年9月4日―昭和47(1972)年12月11日、山形県鶴岡市生まれ。実業家。大正6年三菱合資に入り、7年三菱鉱業創設で同社に転じ、明延鉱山、尾去沢鉱山などの現場労務に従事、19年日本アルミニウム専務、戦後21年社長となった。翌22年公職追放で退社。解除後、鉱山経営者連盟専務理事、25年日本精鉱社長、30年三菱鉱業に復帰、社長となり、三菱セメント社長に就任した。34年相談役。36〜40年東北開発株式会社総裁となった。また日本石炭協会会長、経団連、日経連常任理事、炭鉱離職者援護会理事長などを務めた。

1.イノシシの護送役
明延鉱山といえば、当時兵庫・播但線の八鹿駅から山奥へ8里(32km)、汽車を降りると、贅沢な人で人力車、でなかったらガタガタ馬車に乗るか、さもなくば渓流に沿う山道を歩くしかなく、奥地にさしかかると、それこそ深山幽谷であった。この鉱山の付近にはいろいろな鳥獣が棲んでいて、冬になるとよく猪が出た。
 その頃三菱の総帥・岩崎小彌太男爵が、野獣を飼ってみたいから猪を生け捕りにして欲しいと言ってきた。鶴の一声、何とかして生捕りにしようとしたが、なかなかできない。そんなことから、猪の生捕りは何代かの所長の重要引継ぎ事項になっていた。ちょうど私が赴任して間もない大正8年(1919)の冬、今年こそはと村民を動員して大々的な山狩りをやったが、そのとき勇敢な一村民が素手で猪の耳を掴み、みごと生捕りに成功した。署長は非常に喜んでさっそく東京に送ることになり、途中で死なせては困るので、私がその護送役を仰せつかった。
 久しぶりに東京に出られるわけだから、私も喜んで引受けたが、さてそれからが大変だった。猪君は貨車、私は客車と分かれ分かれになったが、夜となく昼となく、駅に留まるごとに、私は駅長さんの了解を得てエサの世話をしなければならなかった。やっと横浜に着いたが、「法学士のお前が・・」と仲間から呆れられた。

2.ダム決壊事故現場の悲惨さ
昭和11年(1936)11月20日、尾去沢鉱山のダムが決壊して350名の生命を奪った大事故が発生した。愛する家族を失った人々は、流れる泥の中を狂乱のように走りまわり、鉱山病院の部屋という部屋は、重傷者の収容で身の置き所もないほどであった。しかも、それらの中から次々と落命が伝えられていく・・・。当事者の私としては、まったく生きた心地もなかった。
 その頃天下の報道は、筆をそろえて会社の責任を難詰していた。何をおいても人心の落着きを取戻さねばならない。そのために私たちは、速やかな死体捜査と最低生活のできる施設の復興を急ぐことにした。ところが何分にも鉱泥深く埋没しているのを一つ一つ掘り返していくという仕事なので、遺族の方々からみれば鉱山のやり方は手ぬるくて仕方がなかったであろう。毎日のように「あの辺にあると思うから捜してくれ」「夕べ枕元にお告げがあったからあの辺を・・」「あの丘に鬼火が見えたからあの辺を・・」と言った申し入れが引きも切らない状態であった。私はそういう人たちの気持ちが良く分かるので、とにかく不確定なものでも、言うとおりに即刻捜査にあたる段取りをとった。
 死体発掘の仕事は毎日続いたが、決して生易しいものではなかった。日数が経つにつれて死体の顔かたちがすっかり変わり、性別は分かってもどこの誰か判別のできないものが出てきた。ワラも掴む思いで子供に判別を手伝ってもらったら、これが意外な成果を上げた。全く子供の直感の鋭さには驚いたのだった。

3.西独に青年労務者250名を派遣
昭和32年(1957)3月、西独と日本の政府間に日本の炭鉱各社から青年労務者250名を、3年間の契約で派遣し、あちらの技術を習得し、労働慣習を体得してもらう話合いがまとまった。私も同年6月、経営者団体の代表として西独にわたり、細目の協定を取決めるとともに、親しく派遣労務者諸君と現地の労務者との交流機会に恵まれたのだった。

苦労雨が美しい虹に
大震災 大惨事は宇宙の摂理
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