掲載時肩書 | ソニー社長 |
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掲載期間 | 1962/12/15〜1962/12/31 |
出身地 | 栃木県日光 |
生年月日 | 1908/04/11 |
掲載回数 | 17 回 |
執筆時年齢 | 54 歳 |
最終学歴 | 早稲田大学 |
学歴その他 | 神戸一中 |
入社 | PCL‐photo- chemical-laboratory |
配偶者 | 前田多門二女 |
主な仕事 | 日本光音、日本測定器、東京通信研究所、東京通信工業、マイクロテレビ、小中学理科教育資金制度 |
恩師・恩人 | 野村胡堂(妻ー実母が女子大同期) |
人脈 | 植村泰二(甲午郎弟)、盛田昭夫、田島道治、岩間和夫、太刀川正三郎、万代順四郎、山本為三郎、佐藤喜一郎 |
備考 | クリスチャン、色弱、父:新渡戸門下生、母:日本女子大 |
1908年(明治41年)4月11日 – 1997年(平成9年)12月19日)は栃木県生まれ。弁理士、電子技術者、実業家。盛田昭夫とともにソニーの創業者の一人。敗戦翌日に疎開先の長野県須坂町から上京し、2か月後の1945年(昭和20年)10月、東京・日本橋の旧白木屋店内に個人企業東京通信研究所を立ち上げる。翌年5月に株式会社化し、資本金19万円で、義父の前田多門(終戦直後の東久邇内閣で文部大臣)が社長、井深が専務(技術担当)、盛田昭夫が常務(営業担当)、増谷麟が監査役、社員20数人の東京通信工業(後のソニー)を創業。以来、新しい独自技術の開発に挑戦し、一般消費者の生活を豊かに便利にする新商品の提供を経営方針に活動を展開。そして、多くの日本初、世界初という革新的な商品を創りだし、戦後日本経済の奇跡的な復興、急成長を象徴する世界的な大企業に成長していった。
1.少年時代はメカ狂い
小学校2年のとき、町の時計屋に電鈴を売っていたが、これが欲しくてたまらず、祖父にねだってベルと針金、乾電池など一揃いを買ってもらった。電池の両極を針金で繋ぐと火傷をするほど熱せられることも覚えた。緑色にピカピカ輝いていたコイルも次第に分解され、隣家の友達の家との間の電信機に化けた。モールス符号などは知らないから勝手に暗号を作ったこともある。
当時の自転車にはアセチレン・ランプが付いていた。そのランプの構造が知りたくて、分解しようといじっていると、何かの拍子で爆発し、すんでのところで大けがをするところだった。大きな爆音に胆をつぶした。
2.盛田昭夫氏との出会い
昭和15年(1940)に日本測定器を発足させた。陸海軍の技術研究所では私たちの測定器に大変賛成してくれて、次から次へと仕事をくれた。しかし戦局が不利になるにつれて、私たちは陸軍の命令で「マルケ」という熱線誘導兵器の一部の研究に全精力を集中した。これは敵艦の熱を捜して爆弾を敵艦に命中させるもので、画期的な新兵器であった。こうした新兵器を研究するために戦時研究会があり、東京会館で研究会を開いたが、これが機縁で当時海軍中尉に任官していたホヤホヤの盛田昭夫君(現ソニー副社長)との出会いの場となった。私と彼とは年こそ10年もの違いがあるが、二人はその頃からよくウマがあった。
盛田君は阪大理学部出身の優れた技術将校だったが、そうした彼の教養に私の心を動かすものがあり、熱線爆弾の研究を通して心と心の結びつきを深めていった。
3.江崎玲於奈君を世界の檜舞台に
エサキダイオードは与える電圧を大きくするとある点で電流が減るという普通のダイオードには見られない特性を持っている。これは負性抵抗と呼ばれ、トランジスターと同じように発振とか増幅の作用があり、トランジスターでは及びもつかない高い周波数で働くので極超短波域や高速度の電子計算機では、他のものではやれない威力を発揮する。
私はこれは大変なものだと思い、日本の大学と研究所とベル研究所に報告したが、あまり評価されなかった。それではしかたがないので、34年(1959)の2月フィジカル・レビュー誌に発表した。これが世界の注目するところとなり、34年の秋、ブリュッセルでの半導体会議の席上、トランジスターの発明者ショックレー博士の激賞を受け、一躍江崎君は世界の名士となった。
米国の方々の会社からの招へいがあったが、江崎君との相談の上、江崎君の今後の研究を本当に生かす最善の方法としてIBMに移ることに決めたのである。世間では喧嘩別れをしたの、どうのと大変やかましいことだったが、私はあくまで彼の才能を伸ばせるだけ伸ばすための処置だった。
4.大パーティで思わぬ失敗
昭和23年(1948)といえばインフレがピークに達したときである。“勘定合って銭足らず”の経営が続いた。この年の4月決算では640万円の売上で利益11万円を計上した。59名の株主に初めて5分の配当を行った。製品の種類が増えるにつれて工場もだんだん手狭になってきた。そこで御殿山の山上に工場を建てることになった。苦しい経営時代が続いただけに新工場の完成は自分の家のように大きな喜びだった。
この工場ができた24年はまだ食糧事情が悪い頃で、食べ物には魅力があった。そこで工場の完成を祝って「食べ放題、飲み放題」のレセプションをやろうということになり、時の総務部長・太刀川正三郎君(現ソニー企業社長)が東奔西走して、すし、焼き鳥、支那そばなどの屋台を出した。山海の珍味を買い集めての盛大な祝賀会になった。当日は万代順四郎、前田多門、緒方竹虎、石橋湛山、高橋龍太郎、山際正道、佐藤喜一郎、野村胡堂の諸氏をはじめ天下の名士、取引先関係者200名が集まった。お客さんの招待が終わってから従業員や家族が集まって大いに立ち食いした。
さすがのすし屋も手のひらにマメを作るほどだった。だがこの豪華なレセプションを開いたため、その月の給料日に金が足りず給料遅配という事態が起こった。現金繰りを誤り、金策が間に合わなかったのである。そこで三分の一を給料日に、残りの三分の二は月末に払ったが、これが当社の従業員に対するたった一度の遅配(幹部はその限りにあらず)で、以後これに懲りて、万代さんが会長に就任されるまでパーティというものを開いたことはなかった。