掲載時肩書 | ダイキン工業会長 |
---|---|
掲載期間 | 2007/02/01〜2007/02/28 |
出身地 | 京都府 |
生年月日 | 1935/03/10 |
掲載回数 | 27 回 |
執筆時年齢 | 72 歳 |
最終学歴 | 同志社大学 |
学歴その他 | |
入社 | 大阪金 属工業 |
配偶者 | 妻ピア ニスト |
主な仕事 | 庶務、企画、人事、沖縄ゴルフ大会、コ コム事件、米国工場、世界戦略、マレーシア企業買収 |
恩師・恩人 | 山田稔社長 |
人脈 | 嶋雅二(Jオイル)、中山素平、椎名武雄、中谷巌、立石義雄、宮原賢次、宮内義彦、寺田千代乃 |
備考 | 父京大教授 |
1935年3月17日 – )は、日本の実業家。ダイキン工業代表取締役会長兼社長を経て、同社取締役会長兼グローバルグループ代表執行役員、経営危機にあったダイキン工業を世界トップクラスの空調機メーカーに成長させ、同社中興の祖とされる。関西電力取締役、阪急阪神ホールディングス取締役、関西フィルハーモニー管弦楽団理事長などを歴任。
1.人事部長の仕事
1975年(昭和50)9月、本社へ赴任したとき山田稔社長に挨拶に行くと「城から打って出る人事部にして欲しい」とだけ言われた。人事部は理屈ばかり振りかざし、第一線の現場からの評判はすこぶる悪い。山田社長が人事部長と3人の課長を一度に交代したのは、そんな組織に風穴を開けるためだと私なりに理解。
工場では当たり前だった朝礼を始め、対話の場として使った。約40人の部員には会社の動きをつぶさに説明し、情報を共有する。部員は生きた情報の中から問題意識を持つ。部員を集めてよく旅行し、連帯感を強めようとした。また、部員には毎年、1月10日までに私宛に手紙を出してもらった。仕事の悩みでも将来への決意でも良い。手紙には赤字でコメント書き込み、月末までに必ず返事を出した。人事部長だった13年間、欠かさなかったのは部員との対話を深めるためだった。
2.日本女子プロゴルフツアーの手伝い
このゴルフツアーの開幕戦となる沖縄の「ダイキンオーキッドレディスゴルフトーナメント」は2007年で20回目を迎える。生みの親は、スポンサーを探していた琉球放送の小禄邦男社長(当時)に当社を推薦した日本興業銀行の中山素平特別顧問(同)だ。中山さんは沖縄を愛し、地域振興に情熱を注いでいた。
トーナメントの「前夜祭」と「プロアマ大会」に当初は代理店主ら商売関係者を招くつもりで動いていたが、山田社長は「沖縄と本土との経済界の交流促進のため経済界の人を呼んだらあかんかなあ」と言い出し、方向が急に転換した。中山さんからは大いに褒められ、第1回大会に門下生のような経済人を10人、東京から連れて来られた。ウシオ電機の牛尾治朗会長、秩父セメントの諸井虔会長(当時)らがその中心にいた。椎名武雄さん(日本IBM最高顧問)、宮原賢次さん(住友商事会長)、宮内義彦さん(オリックス会長)ら日本を代表する経済人との交友はすべてオーキッドのご縁である。
前夜祭会場の前に、日ごろは自ら買い物をしない経済人たちがオリジナルウェアなどを選んで楽しめるコーナーを設置。ホテル客室の冷蔵庫の中身をお好みの飲料に変える。参加者の帰宅に合わせて沖縄の香りを楽しんでもらおうとご自宅に沖縄のランの花を届けるー。他の大会にはないアイデアと、ささやかな気配りでもてなした。
3日間の第1回大会が終了した後、ある役員がホテルのロビーで「ご招待した方々から心から喜んでいる姿を見て、山田社長が目に涙をためとったで」と囁いた。滅多に泣かない私もこらえきれずに涙を流した。
3.世界展開
1994年6月に社長として、空調のグローバル展開を打ち出した。とりわけ拡大する中国市場の攻略は、最も重要なテーマであった。市場の伸びが大きい家庭用を中心に展開すべきだといった社内の声も多かったが、最後は「衆議独裁」で業務用の高級機種を中心に新市場を創造する方針に決めた。普及機の床置き型ではなく、あえて最先端の天井埋め込み型を投入した効果もあって業界地図を塗り替えた。97年に上海、西安と恵州で現地生産を開始。中国事業はこの10年、海外で最も利益率の高い収益の柱に育った。
欧州にも攻勢をかけた。パソコンを使うオフィスの増加や猛暑の影響もあって欧州では空調への期待が高まっていたが、代理店を通じた販売に頼り、本格展開はしていなかった。パリ、ミラノなどの販売拠点を訪ねた私は欧州市場に地殻変動が起きると直感し、11か国の販売代理店を相次ぎ買収し、大拡販に打って出た。欧州の売上高は今では2千億円を超えようとしている。
いのうえ のりゆき 井上 礼之 | |
---|---|
生誕 | 1935年3月17日(89歳) 日本・京都市 |
職業 | 経営者 |
著名な実績 | ダイキン中興の祖[1] 2019年、旭日重光章 受章 |
井上 礼之(いのうえ のりゆき、1935年3月17日 - )は、日本の実業家。ダイキン工業代表取締役会長兼社長を経て、同社取締役会長兼グローバルグループ代表執行役員、関西フィルハーモニー管弦楽団理事長。ダイキン工業で1994年の社長就任時に3千億円台だった売上高を4兆円超に育てた[2]。