掲載時肩書 | 大洋漁業社長 |
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掲載期間 | 1962/10/13〜1962/11/06 |
出身地 | 兵庫県明石 |
生年月日 | 1896/03/25 |
掲載回数 | 25 回 |
執筆時年齢 | 66 歳 |
最終学歴 | 小学校 |
学歴その他 | |
入社 | 林兼商店・自営 |
配偶者 | 父推薦娘16歳 |
主な仕事 | 朝鮮漁業場、定置網漁、林兼商店、北洋漁業、大洋漁業,南極捕鯨、日ソ交渉、チフス研究会、栽培漁業、大洋球団、育英資金 |
恩師・恩人 | 父:幾治郎、GHQテーリー大尉 |
人脈 | 白洲次郎、法華津孝太(極洋)、河野農林大臣、小西得郎、森茂雄、三原脩、永田雅一 |
備考 | 父・兄・弟の連係プレーが立派、趣味:将棋 |
1896年(明治29年)3月25日 – 1977年(昭和52年)1月14日)は大正~昭和期(1920年代後半~1970年代前半)の実業家。大洋漁業(現・マルハニチロ)元社長。プロ野球チーム・大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)の元オーナー。父は林兼商店(大洋漁業の前身)創業者の中部幾次郎。謙吉は大洋漁業の社長として1977年に死去するまで24年間にわたって指揮をふるい、1953年には魚肉ハムソーセージを発売し養殖事業に参入、1960年には飼料畜産事業に参入、1964年には塩水港精糖に資本参加して砂糖事業に参入するなど経営の多角化を推し進めた。また、大洋漁業の兄弟会社である大東通商社長も務めたほか、私財を投じて幾徳学園を設立、理事長も務めた。
1.初陣(船出)は大船酔いでダウン
私は14歳で父親の待つ朝鮮半島の巨済島に向かい、初船出をした。林兼には当時3隻の発動機船があった。私が乗ったのは20トン余りの第二新生丸だ。下関を出た時から海上はあいにくシケ模様となり、私はたちまち吐き気をもようした。玄海の荒海に出ると船は木の葉のように揉まれ、遂に筑前大島に避難して夜を明かし、波の静まるのを待って翌朝乗り出したのだが、シケはまた襲ってきて再び対馬に難を避けねばならなかった。私はもう何も吐くものがなくなり、黄色い胃液ばかりが出る始末だ。3日3晩というもの飲まず食わず吐き続け、巨済島に着いた時はクタクタになっていた。
親父の腕に支えられてようやく事務所に辿り着き、温かい飯とみそ汁を出されたが、おなかがペコッと背にくっ付いているようで、何も食えない。数えるほどの飯粒を茶漬けで流し込んで、5,6時間もたってからやっと普通のものが食べられ、いやはや、大変な初陣であった。
2.商売のコツ
親父は昔から「高く買って安く売れ」と教えていた。チョッと聞くと変な感じがするが、売り手は高く買ってやれば喜んでいいものをどんどん売ってくれるし、買う人は安い方がいいにきまっている。特に鮮魚の仲買問屋としてはこの商法はモノを言った。
たとえばハモを買い付けるのに、それまではいちいち籠に入れて水を切って目方を量っていた。このやり方だと籠の中でハモが嚙み合って傷ついたりして、内地へ運ぶまでには半分ぐらいは死んでしまう。私は漁船の生簀にいるハモをそのまま目分量でそっくりこちらの生簀に移す方法を実行した。少々「水を買ったって」この方が歩留まりがいいにきまっている。この噂が立って、「林兼の若は水を買ってくれる」となり、漁師たちがワンサと私の事務所に押し掛けるようになり、双方とも目方を量る手間がいらずホクホクだった。
3.最良の防寒方法
朝鮮は寒く、冬は寒さとの闘いである。事務所ではストーブを焚いていたが、零下15度~17度となると家の中も凍るような寒さだ。朝は8時に始まるのだが、厳寒の候には従業員がともすると遅れがちになる。そこで誰いうとなく遅れてきた者は海へ飛び込むことを約束した。凍るような海だから、初めは誰も遅れてこなかったが、とうとう違反者が一人出た。そいつは、約束だからやる、と言ってガタガタ震えながら裸になった。
すると「今日は特別寒いぞ。一人で入るのは可哀そうだ。いっそみんなで飛び込もう」となり、私も参加。素っ裸でザンブとばかり海中に飛び込んだのはいいが、上がった途端に歯の根は合わず、男のシンボルもどこへやら縮みあがってしまった。ところが、これが最大の防寒法なのだ。上がって来て真水で体を拭くと、ほてって来てストーブなんかいらない。それからは週に一度は全員飛び込みをやって、寒さを忘れた。乱暴と言えば乱暴だが、海で働く当時の若者たちは、誰もこのくらいの意気込みがあったものだ。