掲載時肩書 | 元首相 |
---|---|
掲載期間 | 1992/01/01〜1992/01/31 |
出身地 | 群馬県 |
生年月日 | 1918/05/27 |
掲載回数 | 31 回 |
執筆時年齢 | 74 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 静岡 |
入社 | 内務省 |
配偶者 | 同僚・妹 蔦子 |
主な仕事 | 海軍短現、代議士(28歳)、三島事件、新派閥旗揚げ、土光行革、仕事師内閣、韓国最初訪問、ロン・ヤス |
恩師・恩人 | 河野一郎 |
人脈 | 早川崇、大村譲治(内務)、田中角栄・原健三郎(当選同期)、荒船清十郎、石井光次郎、稲葉修、山中貞則、渡辺美智雄、後藤田正晴 |
備考 | 家:材木商 |
1918年〈大正7年〉5月27日 – 2019年〈令和元年〉11月29日)は群馬県生まれ。政治家。自由民主党では三角大福中の一角を占め、第71・72・73代内閣総理大臣に就任。国鉄民営化を成し遂げるとともに、アメリカのロナルド・レーガン大統領とのロン・ヤス関係や不沈空母発言で貿易摩擦等により悪化していた日米関係を改善させ、強固なものとした。若手議員の頃は青年将校と呼ばれ、後に原子力関連法案の議員立法にも尽力した。首相公選制を唱え、憲法改正を悲願とした。小派閥を率いる中で「政界の風見鶏」とも呼ばれた。
1.輸送艦「台東丸」に2000人の部下と命の恩人
昭和16年(1941)11月29日、主計長としての私に2000名の徴用工員が配属され呉軍港から日本を離れた。任地に到着するまでにこの2000人の工員らを編成し、指揮する体制を作らねばならない。医学士もいれば文士もいる。年寄りもいれば若者もいる。さながら野武士の集まりごときものである。二十歳を過ぎたばかりの私にとって、これら海千山千の猛者をまとめるのは途方もない大仕事だった。あれこれ思案を巡らせた挙句、毒を以て毒を制すで、協力者として前科八犯のYを選んだ。彼は眉間には傷、背中には鮮やかな彫り物の持ち主だ。私は彼を仕官室に呼び、次のように切り出した。
「オレは上州の生まれで、国定忠治の流れを汲んでいる。しかし学校を出たばかりで、海軍のことは何も知らん。お前を男と見込んでの頼みだ。ひとつオレの子分になってくれないか」と。私の率直な申し出にYも心を動かされたようだった。「ようござんす。子分になりやす」。私は従兵に1升瓶を持ってこさせ、固めの盃だと差し出した。Yは右手で制して、「こういう時は親分が先に空けるものでさぁ」という。私が飲んで渡すと、押しいただくように杯を受け取ったYは突然、三歩ほど下がって、「おひけいなすってくださいまし。手前・・・」と仁義を切り、豪快に飲み干した。これには私も参った。こうして「Y班長」が誕生したのである。
1月24日夜、オランダ海軍と思われる駆逐艦の殴り込みを受けた。味方の輸送船がアッという間に火を噴き、轟沈させられた。我が台東丸の船体にも4番ハッチに敵弾が命中した。駆け付けると、阿鼻叫喚の地獄絵である。「班長がやられています」と部下の絶叫。懐中電灯の光の中に、戦友に背負われ、皮一枚でくるぶしに繋がった足をぶらぶらさせている。「主計長、すまねぇ」。そう言って応急治療室に運び込まれて行った。痛みに泣きわめく負傷者を「馬鹿野郎、オレの傷をみろ」と叱咤激励し、軍医に「若い連中の手当てを先にしてくれ」と頼んだという。1月27日、Yを含む23名の亡骸を荼毘に付した。感謝のみ。
2.議員宿舎の仲間
昭和27年(1952)、議員宿舎ができ私も入居した。今の高級マンション風の建物ではなく、粗末な木造二階建てだった。私の部屋は一階で、右上の二階は山中貞則君、私の家では子犬、山中君のところは手乗せ子猿を飼っていて、女房同志が「だから犬猿の仲と言われるんでしょうかね」と冗談を言っていた。
一階には二階堂進君、瀬戸山三男君が住み、子供たちはみんな仲良くなって部屋を行ったり来たりしていた。荒船清十郎の奥さんが私の娘を風呂に入れ、私の娘が田村元君の子供のベビーシッターになったりもした。男同士も坂田道太、江崎真澄君らを含めて、風呂場で裸の付き合いをした。
3.河野一郎先生
先生は、肌を接して日常の馬鹿げたことから付き合っていないとなかなか真価は分からない。仲間はとことんまで守り可愛がるが、敵は徹底的にやっつける。地方豪族に特有の一族郎党主義を信条としていた。この中に入り込むと、団結、友情に覆われて、人間が溶かされて行く。味方は何でも善、敵は何でも悪という。
私はこの点を常に注意していた。河野先生のスキンシップで溶かされまいとしたのである。例えば朝、河野邸に赴くと、決まって家族と一緒の朝食に誘われた。だが私はいつも「応接室でお待ちしています」と答えて、意図的に一定の距離を置いた。先生も中曽根は杓子定規で、心を許さないと思っていただろう。
しかし人間・河野一郎は、温かな人情味のある無上の魅力的な存在だった。政治家としての私に欠けているところを豊富に備えていた。その勉強もあって春秋会(河野派)に参加していたのである。
4.田中角栄氏と私
ふたりは昭和22年(1947)の戦後2回目の総選挙で当選した28歳の同期である。田中氏は、隣近所や町内の祭り、税務署から交通安全協会にまで気を配り、個人商店を一部上場の大会社に発展させるような処世知の豊かさとすさまじい行動力は、田中氏の得意の場面である。
私はそのような情の世界よりは、思想を正面に押し立て、参謀集団のマシーンを使って政策を生み、進路を決め、有権者を説得する理論知に頼ることが多い。彼は具体論から本論を探求し、私は本論から具体論を展開する傾向があった。
両者に共通するのは旺盛な国家意識だったと思う。相手の実力に敬意を表し、いかなる時にも心の通じている盟友だった。話せるヤツとして許し合っていたところがあった。
氏は、’19年11月29日に101歳で亡くなった。この「履歴書」に登場は74歳の1992年1月であった。田中角栄氏は48歳で自民党幹事長のときに「履歴書」(1966年)に登場し、35回の連載でした。その最終回は昭和22年(1947)4月選挙において28歳で代議士当選したくだりでした。この選挙で同じ28歳で初当選した中曽根氏は次のように書いている。
65,484票。決して忘れられない数字である。昭和22年4月25日、私は群馬3区の最高点で当選した。有権者がそれほど多い選挙区ではなかったが、全国で5番目の得票であり、最年少の28歳だったと。
そしてこの「履歴書」の書き始めは、『政治家の場合、「私の履歴書」に登場することは、読者を裁判官とする歴史の法廷に被告として立つことである。だからその陳述に自己弁護を伴うことは避けられない。略。人生の晩年に書く「履歴書」には得てして成功物語が多い。本当は身を刻むような挫折と失敗の連続であり、成功と呼べるものは選挙で大勝した時くらいのものである。毎日毎日が苦渋に満ちている。実はその失敗の記録の方が尊い』のだろう。
また氏は、政治とは「お世辞と人の生死」との間を往来するものである。当選のためにはお世辞も必要であるが、国民や人類の生死にかかわる境については凛然たるものがなければならない。私は求道者としての政治家として石橋湛山、片山哲氏らを高く評価している、とも。
前述のように、田中氏は幹事長時代の48歳で「履歴書」に登場し、自分の生い立ちから代議士当選までを35回に亘って連載した。ならば中曽根氏74歳は首相も経験したのだから生い立ちから首相時代の国鉄、電電公社など民営化、米国、中国、韓国と友好関係など功績も多くあるため、31回の連載に止まらず、もっと書いて欲しかった。しかし日経新聞は1985年から連載をひと月単位に決めてしまったのを残念に思われたことだろう。
中曽根 康弘(旧字体:中曾根 康弘、なかそね やすひろ、1918年〈大正7年〉5月27日 - 2019年〈令和元年〉11月29日)は、日本の政治家。位階は従一位。勲等は大勲位菊花章頸飾。
衆議院議員連続20回当選(1947年 - 2003年)。科学技術庁長官(第7・25代)、運輸大臣(第38代)、防衛庁長官(第25代)、通商産業大臣(第32・33代)、行政管理庁長官(第45代)、内閣総理大臣(第71・72・73代)、自由民主党総務会長、自由民主党幹事長、自由民主党総裁(第11代)、公益財団法人「世界平和研究所」会長、拓殖大学第12代総長・理事長、名誉総長、東アジア共同体評議会会長、新憲法制定議員同盟会長を歴任した[1]。