中山譲治 なかやま じょうじ

化学

掲載時肩書第一三共常勤顧問
掲載期間2023/06/01〜2023/06/30
出身地大阪府
生年月日1950/05/11
掲載回数29 回
執筆時年齢73 歳
最終学歴
大阪大学
学歴その他ノースウェスタン大学(MBA)
入社サントリー
配偶者生田和代(ソルボンヌ大)
主な仕事大阪支店(営業)、父大臣秘書、財務部、企画部、第一製薬、第一三共、インド後発薬社売却、新薬に特化、がん領域、バイオ生産、アストラゼネカ提携、
恩師・恩人大沢文夫、佐治敬三(仲人),木下毅
人脈野口照久、森田清、庄田隆、采孟、奥沢宏幸、小川晃司、アントワン・イヴィル、ケン・ケラー、パスカル・ソリオ
備考祖父母(マサ:厚相)、父・太郎(外相)、叔父・正暉(大臣)
論評

製薬業界からの「私の履歴書」登場は、武田薬品の武田國男氏と中外製薬の永山治氏に続いて3人目である。氏は政治家一家に生まれたが、生物工学に興味を持ち、米ノースウェスタン大学に留学しMBAも取得。外国人との付合いや国際感覚も磨いた。就職は医薬品の研究・開発の道に進んだが父親の大臣秘書を経験することで政治家や官僚との付合いも学ぶ。これらの経験が氏の人柄と相まって子会社から親会社の社長に昇りつめ、実績を残された。この履歴書では製薬企業の問題点と課題も詳しく書かれていた。

1.政治家一家
(1)祖父(福蔵):東京帝大を卒業すると大阪で弁護士事務所を開いた。1932年に4回目の衆議院選挙で初当選した。自説を容易に変えず、記憶力や判断力に強い自信を持つ人だった。選挙下手で衆院選では当選より落選が多く、参院選では3勝1敗だった。
(2)祖母(マサ):1912年に米オハイオ・ウェスリアン大学に留学した。47年4月、戦後2回目の選挙で祖父・福蔵の大阪選挙区が1区と2区に二分された。おしどり議員を目指したが、福蔵は落選、マサは当選し厚生行政に注力した。マサの英語力と国際感覚はフルに発揮され、厚生政務次官を経て厚相に抜擢された。マサは衆院に8回当選し69年に引退した。
(3)父(太郎):戦後、大阪高等医専(現・大阪医科大学)を卒業し、52年に診療所を開いた。開業3年後、大阪府議会議員に立候補し当選。4選を果たした後、福蔵の地盤を継ぎ参議院選に当選した。86年の衆参同時選挙で衆院に鞍替えし当選。89年に誕生した海部俊樹内閣で外相に就任した。
(4)叔父(正暉):祖母のマサが69年に78歳で政界を引退すると、5男の正暉が後継として衆院に当選した(後・郵政大臣)。私が小学校の頃、正暉叔父に衆議院のプールに連れて行ってもらったことがある。てっきり小学校のプールと同じと思い、いきなり飛び込んだら足がつかず、もがきながら沈んでいった。すぐに正暉叔父が救いあげてくれたので、事なきを得たが、叔父は命の恩人だ。

2.政治家秘書の経験から
サントリーでの営業の仕事に限界を感じた私は、1981年春から1年ほど休職した。鈴木善幸内閣の総理府総務長官になった父の太郎から、政務秘書官をしないかという話があったので引受けた。89年~91年、太郎が海部内閣で外相に抜擢されると、外相の政務秘書官になった。外相秘書官を経験した安倍晋三さんに誘われて飲みに行き、メディア対応などの助言を受けた。
 ここで多くの国の外相や首脳に間近に触れる機会を得た。どの国のリーダーも個人として非常に強い人間力を持ち、それは国の大小とは全く関係ないことに気づいた。外務省では国を背負っているという強い意識を持った多数の官僚が働いていて刺激を受けた。それを束ねてリーダーシップを発揮し、国のために成果を上げるには政治家としてよほど高い見識と経験・人脈が必要だ。自分はそのような政治家にはなれない、産業界で自分なりの仕事をすべきだと改めて決心した。

3.子会社から親会社の社長に
2002年12月、第一サントリーファーマが発足し、社長になった。従業員300人と規模は小さかったが、独立した会社のトップとして改めて責任の重さを感じた。05年2月には第一と三共が経営統合を発表した。準備期間を経て07年に事業統合をし、新会社第一三共の社長は三共の庄田隆社長、会長は第一の森田清社長だった。
 第一三共の発足とともに、07年4月、取締役欧米管理部長に異動になった。10名に満たない部署だった。定年の60歳まで3年。最後に納得できる仕事をしたかった。09年には海外全ての関係会社の管理を担当することになった。ニュージャージー、ミューヘン、パリなどの拠点に北京、香港、台北、ブラジルなどが加わった。全グループ会社の訪問を目標にし、楽しみにしていた。静かに定年を迎える計画だった。
 しかし、そうはならなかった。10年1月に秘書部長から「社長からお話があるので」と呼び出された。部屋に入ると社長の庄田隆さんと会長の森田清さんがおられ、6月に社長兼最高経営責任者(CEO)にするとの内示を受けた。元第一製薬の子会社社長が統合会社の社長になるなどあり得ない。ひどく驚いた。

4.開発の方向転換(がん治療を開発の柱に)
新薬「エドキサバン」(静脈血栓治療剤:商品名・リクシアナ)の大規模な臨床試験や米国での承認申請は、第一三共が買収したインドのランバクシー社を巡る問題が深刻化した時期と重なる。14年4月に同社をインドの後発薬大手サン・ファーマシュティカル社に売却すると決定した。
 医薬品産業では今後最も重要な市場は人口動態(世代のバランス)、経済力、政治的安定から米国になる。ここで評価されないと企業としての成長は極めて厳しい。新薬で米国市場を制するには開発スピードが最も重要になる。これまで中心に据えてきた循環器領域、生活習慣病領域の薬は長期間服用するので、薬の効果と副作用の少なさを同時に追求する必要があった。エドキサバンではその両面を深追い過ぎた。よい製品はできたが時間がかかりすぎ、早い承認申請を重視する米国市場への参入が実質的にできなくなった。
この経験からいえるのは、有効性と安全性のバランスをとりながら最速の開発をするには、米国での研究・開発両面での強力な基盤がいるということだ。それが十分でない第一三共が戦えるのは、有効性の重要度が際立つ分野、つまり重篤な疾患であるがんの分野になる。そして新薬と後発薬の「複眼経営」から新薬事業に回帰・集中し、新たな出発をしようと決めた。そして、インドのサン社の株を売却することにした。

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