武田國男 たけだ くにお

化学

掲載時肩書武田薬品会長
掲載期間2004/11/01〜2004/11/30
出身地兵庫県
生年月日1940/01/15
掲載回数30 回
執筆時年齢64 歳
最終学歴
甲南大学
学歴その他甲南高
入社武田薬品
配偶者老舗醤油娘(佐治敬三仲人)
主な仕事経理課、仏、ケンブリッジ語学、医薬、 食品、外国事業部、国債事業部、MPDR戦略
恩師・恩人小西新兵衛( 父いとこ)
人脈御影住人(大林芳郎、弘世現、村山龍平、小磯良平)、柿沢弘治、熊野英昭、長澤秀行、藤野政彦、長谷川閑史
備考父との確執
論評

1940年1月15日 – )は兵庫県生まれ。事業家、武田薬品工業元代表取締役会長CEO、社長時代に、武田薬品コンプライアンス・プログラムを実施し、企業倫理、コンプライアンスを重視した経営は、高く評価されている。2009年6月に会長を退任。相談役や顧問などの役職には就かなかった。日本経済団体連合会副会長、関西経済連合会副会長。娘は馬術選手の武田麗子。

1.自分の存在の小ささを知る
私は大阪の古い商家の3男として生まれた。生まれながらにして長男・彰郎が後継と決められていた。将来の家長とそれ以外の子供は明確に区別され、長男には早くから帝王学を施されていた。3男の私から見れば長兄を育てるためにある家庭であった。だから小さいころからひがみ根性がしみつき、学校でもおよそ勉強しない劣等生で生きてきた。
 1980年(昭和55年)、6歳年上の長兄で、翌年の創業200周年を機に社長に昇格し、7代目長兵衛を襲名する予定であった副社長の彰郎が、ジョギング中に倒れ46歳で急逝した。長男の社長就任を誰よりも願っていたのは会長であり、父であった六代目長兵衛だった。このショックで父は抜け殻のようになり半年余りで亡くなるが、その5日前に私は父を見舞った。その時の父の顔を忘れることができない。
病室のベッドに弱々しく座り、じーっと私を見つめていた。ひと言も口をきかない。しかし、その目が語っていた。「なんでくだらんお前が生きとんのや。彰郎の代わりにこのアホが死んどってくれたらよかったんや」と。私は父の生きる力まで奪った兄の存在の大きさを改めて思った。そして私の存在の小ささを思った。

2.夏休みは武田工場でアルバイト
1962年(昭和37年)春、甲南大学を卒業、武田薬品に就職した。大学1年から夏休みには工場でアルバイトをさせられていた。父、長兵衛の指示によるもので、学生のうちから少しでも会社の空気に触れさせておこうとしたようだ。アルバイトは武田以外を許してもらえず、大阪・十三工場と山口県の光工場だった。
 商品の梱包、配送、ボイラー焚きに飯炊きといった雑用だ。実験用のネズミの糞掃除もやらされた。社員食堂では大釜で飯を炊き、一人ずつよそって渡せば、「おい、けちらんともっとぎょうさん盛らんかい」と勝手なことを言う。お陰で工場の人たちとすっかり親しくなった。社長の息子と聞かされても「そーでっか」の一言。人見知りする私には、この底抜けの気楽さが何ともありがたかった。

3.人生の転機
1980年5月、傍流の食品事業部から企画部に異動した。その年の2月に6歳年上の長兄で、副社長の彰郎が46歳で急逝した。9月、今度は父、六代目長兵衛が後を追うように亡くなったことによる人事だ。そして米国合弁会社のアボット・ラボラトリーズ社(TAP)の副社長として赴任し、3年間で前立腺がんの治療薬「リュープリン」の発売し成果をあげる。
 1983年米国勤務から国際事業部に戻り、長期戦略づくりを思い立った。自分では何もしないから、優秀なテクノクラートを相棒に欠かせない。その人と目星をつけた長澤秀行さんに打診すると即座にOKだった。このコンビ、このまま社長、副社長へと発展していく。相棒は頭の回転が速くて緻密。それでいて真っ正直で私欲のかけらもなかった。

4.医薬事業の意識改革
1989年に常務、91年に医薬事業部長に就任した。いよいよ本丸に登場と武者震いがでたものだ。ところが、その内実は驚くことばかりだった。創業200年にもなる老舗企業は、いつしかぬるま湯の中での仲よしクラブ。部門エゴにうつつを抜かし、上司に追従する社員しか出世しない体質になっていたのである。万事ドンブリ勘定で、責任の所在などあってないようなものだった。そこで、医薬事業部長になってすぐ全国の支店を回った。
支店長に「ここの利益は」と尋ねると「売り上げはつかんでいますが、利益についてはざっとこんなものだろうという数字しかありません」と平然としている。金銭感覚のないことおびただしい。利益が増えたら何が貢献したのか、減ったら何が足を引っ張ったのか、これまたあいまい。すべて惰性で動いている無責任組織に映る。だいたい営業計画は事業部内の一応の高い目標と、会社に提出する安全な計画の二通りあると言うのだからおかしい体質になっていた。
もっと大きな問題があった。医薬品事業にとっての生命線である研究所だ。まるで象牙の塔にいるかのように論文を書くのに忙しく、企業の研究所として最も大事な売れるくすりづくり、『創薬』という意識がないのだ。質量ともに国内最高水準のスタッフを抱え、しかも潤沢な研究開発費を投じながら目立った新薬が出ない。研究のための研究というわけだ。この非効率な研究体制を他社から〝武田病〟と揶揄されていた。
知れば知るほど危機感が募ってくる。これが大企業病かと思った。この体質、風土を打ち破らないと、グローバルな競争相手ととうてい戦えないと痛感した。

5.研究から営業までの一貫体制構築
1991年(平成3)、私が医薬事業部長となった当時、新薬開発を担うべき研究所は利益追求という意識が稀薄だった。スピードの速い海外の大手企業に対抗していくには研究から営業まで一貫した体制をつくらなければならない。それでできたのがMPDR戦略だ。マーケティング、プロダクション、ディベロプメント、リサーチの頭文字をつなげたもので、各組織を貫通する高速道路といえる。ここにコミュニケーションという車を走らせるわけだ。言い換えると縦割りのセクションに横串を通し、研究の段階から市場性、開発方針、生産計画、販売方針に至るまでの意思疎通を図り、効率を上げるものである。
 この次は研究所の改革だ。研究部門の再編について、藤野政彦さん(後の会長)にアイデアを出してもらおうと思った。藤野さんはTAP躍進の基盤を築いた前立腺がんの治療薬「リュープリン」を生み出し、基礎研究の拠点として設立した筑波研究所の責任者になっていた。私が研究所改革の方策を要請すると、数日後にはリポートが私の手元に届いた。
 そのレポートは我が意を得たりの内容であったので、国内外で高い評価を受ける画期的な新薬、差別化できる新製品の創出を目的とした組織の改革を実施した。それが創薬研究本部、医薬開拓研究本部の2本部体制だ。一言でいえば、研究の種探しから創薬まで薬の領域ごとに組み換え、事業化への責任の所在を明確にしたのである。

 たけだ くにお
 武田 國男
生誕 (1940-01-15) 1940年1月15日(84歳)
兵庫県住吉村
国籍 日本の旗 日本
出身校 甲南大学経済学部
職業 実業家
子供 武田麗子(二女)
武田鋭太郎(六代目武田長兵衛
栄誉 大阪府知事表彰(薬事功労、1991年)
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武田 國男(たけだ くにお、1940年(昭和15年)1月15日 - )は、日本の実業家武田薬品工業代表取締役会長CEO、日本経済団体連合会副会長、関西経済連合会副会長を務めた。

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