掲載時肩書 | タタG名誉会長 |
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掲載期間 | 2014/07/01〜2014/07/31 |
出身地 | インド |
生年月日 | 1937/12/28 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 77 歳 |
最終学歴 | 米国コーネル大学 |
学歴その他 | |
入社 | 建築事務所 |
配偶者 | 4回破談 |
主な仕事 | ペルシャ系6万人、IBM、子会社再建、harverd,役員定年制、M&A(コーラス、ローバー)、ナノcar, |
恩師・恩人 | JRD・タタ |
人脈 | ラジブ・ガンジィ―、pirot、槇原稔、三村明夫、宮原耕治、 |
備考 | ゾロアスター教 |
1937年12月28日 – )は、インドの実業家、同国最大の企業グループであるタタ・グループの会長。また、ラタンは、タタ・スチール、タタ・モーターズ、タタ・コンサルタンシー・サービシズ、タージ・ホテルズ・リゾーツ&パレスなど、タタ・グループ主要企業でも社長・会長を務めている。
1.いままで外国籍登場30人
「私の履歴書」は昭和31年3月から連載されるようになったが、今までの58年間で外国人執筆者は彼を入れて30人にのぼる。そのほとんどが、米国人であるが、英国(M.サッチャー、T.ブレア)、仏(L.シュバイツアー:ルノー、P.カルダン)、中国(孫平化)、マレーシア(マハティール)、シンガポール(リー・クアンユー)、独(ヘルムート・マウハー:ネスレ)、ペルー(A.フジモリ)、ブラジル(マナブ間部:画家)、インドネシア(F.ラモス)、インド(R.タタ)の12人が他国である。
2.私の年棒
彼はインドの最大財閥であるタタ・グループの第5代目会長となったが、最終章でいままで誰も書かなかったプライベートなことを告白してくれた。一つは年棒で、彼は在任中1700万円~2500万円だったという。インドの物価が安いにしても、グローバル企業のトップにしては驚く程の安い年棒である。米国では2010年度の年棒NO.1はオラクルのラリー・ネルソンで70億12百億円、2位はフォードのアラン・ムラーリーが26億52百万、3位はIBMのパルミサーノで25億18千万であった。日本では年棒1億円以上の役員は東証に報告義務があるため、届けているが100人に満たない。インドの役員が米国のような超高給取りでなければ、インド経済は健全に発展することは間違いないと思われる。
3.私生活
プライバシーの2つ目は、破談になった4つの結婚問題である。米国人2人、インド人2人との破談に至った理由と経緯を述べ、現在も独身で老犬2匹と暮らしている。そして3ツ目は、この家に関してであるが個人の住居ではなく、タタ・グループの所有で本人が死ぬと返却することになっている。別荘はムンバイ郊外に1つあるだけ。社友車はあるが、日中の勤務中に限り運転手付きで使い、仕事外は自分で運転する。
4.死後は「鳥葬」
ゾロアスター教徒(パルシー)である彼は、亡くなれば遺体を鳥に食べさせる「鳥葬」の儀式になるという。
氏は2024年10月9日に86歳で亡くなった。この「履歴書」に登場は2014年7月で77歳のときでした。
この記述では飾り気のない語り口が印象に残っています。本日(11日)の日経新聞朝刊に「評伝」として次のように記載されていました。
―インドに奉仕 不屈経営 ラタン・タタ氏 年商17倍、中興の祖―
タタ・グループは汚職が根強くはびこるインドで賄賂を禁止し、特定政党への政治献金はせず、収益の一定割合を社会還元することを規則で義務付けたユニークな経営形態で知られる。
「国民のために自分に何ができるかを常に考えている」。日ごろから口癖のように語っていたラタン氏は自社収益を追求するだけでなく、インド国家全体に奉仕する精神を貫く経営者だった。
人生哲学は一族のルーツにまでさかのぼる。祖先はペルシャから定住したゾロアスター教徒。カースト制度に組み込まれず、経済的に成功を収める者が多かった。その代表格がタタ一族である。
厚遇に恩返しするため、一族は道徳を重視し、社会貢献することを家訓に掲げた。ラタン氏も他人に対して常に正直であり、約束を守り、差別をしないように創業者の義理の娘である祖母から厳しく教育されたという。
2007年に英蘭鉄鋼大手コーラス、08年に英高級車「ジャガー・ランドローバー(JLR)」を買収したことは世界を驚かせた。ともにインドの旧宗主国、英国にとっては製造業のシンボル的な存在である。
「幼少期から英国による植民地統治に苦しみ、抵抗するインド国民の姿を見て育った。複雑な感情がこみ上げてきて言葉が出なかった」と目に涙を浮かべながら感慨深げに回想していた。
純国産車「インディカ」や10万ルピー(約17万7000円)という低価格小型車「ナノ」の開発に熱心に取り組んだのも社会に奉仕したいという強い願いから。インドの経済発展や庶民の生活向上のために心血を注ぎ続けた不屈の愛国者だった。
シャイな口下手で建築家志望。米コーネル大建築学科で学び、卒業後、丹下健三氏がデザインした建造物を視察するために来日したこともある。「自分のような内向的な人間はリーダーに向いていない」とよく苦笑していた。(編集委員 小林明)