フィデル・ラモス らもす ふぃでる

政治

掲載時肩書元フィリピン大統領
掲載期間2003/11/01〜2003/11/30
出身地フィリピン
生年月日1928/03/18
掲載回数29 回
執筆時年齢75 歳
最終学歴
米国陸軍士官学校
学歴その他比国立大学,イリノイ大学
入社自国軍隊
配偶者高校同期
主な仕事比軍隊、朝鮮戦争、若王子氏誘拐、 参謀長、国防相、大統領、ASEAN仲間入り
恩師・恩人アキノ大統領
人脈スペイン→米国、キリスト旧教80%、新教6%、イスラム8%、エンリノ国防相、マルコス(またいとこ)打倒、アヨロ大統領
備考7100島国土、父 弁護士・政治家・外交官
論評

1928年3月18日 – )は、フィリピンの政治家、軍人。第12代大統領(1992年6月30日 – 1998年6月30日)。1986年、国軍参謀次長であった際、フアン・ポンセ・エンリレ国防相と共に、マルコス大統領の独裁に反対して決起し、エドゥサ革命で政権崩壊に貢献した。その後、国軍参謀総長として、コラソン・アキノ大統領を支え、クーデター未遂が相次いだ困難な時局を乗り切った。1988年1月、国防相に任命。アキノ大統領により後継者に指名され、1992年6月30日、大統領に当選。なお、フィリピンの歴史上唯一のプロテスタントの大統領である。大統領在任時、国営企業の民営化と外資の誘致に力を注ぎ、国内の需要に必要な発電所を建設した。

1.日本軍の占領
1941年12月8日、日本軍の先制攻撃は圧倒的だった。真珠湾攻撃の10時間後にマニラ北方のクラーク米軍基地は激しい空爆で数10機が破壊され、制空権を握られた。日本軍は2週間後にリンガエン湾から本格上陸。42年1月2日、私が14歳の時、マニラは占領された。
 フィリピン人は日本軍政への対応で2つに分かれた。少数派の親日グループは、日本軍の傀儡政権樹立を通じて、米国から独立を目指していた。アキノ元大統領の義父、つまり83年8月にマルコス大統領派に暗殺されたベニグノ・アキノ上院議員の父はその有力指導者で、ラウレル大統領を首班とする占領政権が成立した。私が知る限り多くのフィリピン人は日本軍に反発し、ささやかであっても抵抗した。マルコス元大統領は抗日運動の若き指導者で、抵抗組織を作り、パコ区のレロイ通りに秘密拠点を構築した。

2.陸軍特殊部隊(空挺部隊)の発足
私が指揮する陸軍特殊部隊が発足した。隊員は厳しい審査で選んだ志願兵で構成した。私はおよそ30年、パラシュートとスキューバ・ダイビングをやって来た。どちらも特殊部隊の基本機能である。武器や通信機器などの他に、私はヤギや薬品などの重量物を抱えて降下した。下で待つ兵士を鼓舞するためである。
 仕事ではあるが、私は次第にパラシュート降下に力を入れた。兵士の規律を高め、精神力を養うには格好な手段と見たからだ。私自身、160回も降下した。最後は90年、62歳で国防相の時だった。年齢と立場を考えると危険、との部下の忠告を聞き入れ、その後はあきらめた。

3.ピープル革命
アキノ元上院議員暗殺事件の後、マルコス政権に国民の怒りは高まるばかりだった。アキノ元上院議員夫人のコラソン・アキノ氏が野党統一候補として出馬を表明した。大統領は85年11月、大統領選挙を1年以上繰り上げ、86年2月に実施すると発表した。彼は健康問題から早期実施が自分に有利と読んだのだ。
 11月22日正午過ぎ、私の情報網からエンリレ国防相が大統領へのクーデターを企てた疑いで逮捕される、との報告があった。午後3時、マニラ郊外アラバンに自宅にいた私に、逮捕の動きを確認する情報が相次いだ。最後の電話は当の国防相からだった。「その時が来た。エディ、私とともに行動するか」と緊張した声だった。ためらいなく「支持します」と答えた。これに先立ち彼に、自分と国軍が全面支援すると約束していたのだった。「その時」とは大統領に反旗を翻す時である。
 直ちに私は国防相と緊急記者会見に臨んだ。私は「国軍は安全と法律を擁護する機能を停止している。マルコス大統領とベール参謀総長の国軍はもはや国軍の兵士を代表していない」と大統領からの決別を言明した。この模様は世界中に放映された。その時、我々の周囲には数百人の兵士しかいなかった。
 エンリレ国防相は、国民派のカトリック教徒に強い影響力を持つシン枢機卿に電話で支持の呼びかけを要請した。48時間ほどで放送を聞いた人々が駆け付け、エドサ通りは百万人近い群衆で埋まった。大統領夫妻は25日午後9時過ぎ、マカラニアン宮殿を抜け出し、翌日には米軍クラーク基地からハワイに飛び去った。4日間の平和的で非暴力のピープル革命だった。我々は勝利した。

追悼

氏は!22年7月31日、94歳で亡くなった。「私の履歴書」に登場は‘03年11月で75歳の時でした。氏の在職中に、日本人救出が3件あり次のように書いています。

1.小野田寛郎氏(元陸軍少尉)
1950年代の中頃だったと思う。私がルソン島南部の陸軍司令部で作戦司令していたある日、驚くべき報告が届いた。管轄のミンドロ・オクシデンタル州のルバング島で1人の日本兵を見かけたという。
 ルバング島は首都マニラから南西へ80kmの小島で、山と野原の未開拓地である。「日本兵?」。戦争は終わったが、残留日本兵が隠れている可能性はある。私の上官が捜索を命じた。その時は見つからなかったがその日本兵、小野田寛郎元陸軍中尉は74年に発見、救出された。
 29年前の戦争終結も知らずに生き耐えた日本兵の根性に改めて驚いた。小野田氏は96年にルバング島を再訪した際、大統領の私を表敬訪問、ブラジルに移住したと話してくれた。

2.卜部敏男氏(フィリピン駐在日本大使)
1972年10月22日。私が各州司令部の巡回視察を終え、セブ島からマニラに戻ろうとした矢先だった。マルコス大統領から「日本の卜部敏男大使を救出せよ」との緊急指令が飛んできた。独立を叫ぶモロ民族解放戦線に誘拐されたらしい。万難を排し、大使の安全を確保しなければならない。
 私は早速マラウイ市に飛んだ。霧が立ち込め滑走路もほとんど見えない。 地上部隊が滑走路の左右に並べた軽油缶で火を焚いて辛うじて視界を確保し強行着陸、直ちに軍用車で現地入りした。途中の橋でペプシコーラと書いた大型トラックが立ち往生、炎上していた。敵の罠かも知れなかったが、強引に押しのけ現場へ進んだ。幸い大使一行は現地部隊の努力で無事だった。ヘリコプターで安全な場所に移動することに成功した。

3.若王子信行氏(三井物産マニラ支店長)
1986年11月には三井物産の若王子信行マニラ支店長が何者かに誘拐され身代金を要求された。事件の一部始終は日本でも大きく報道され、フィリピンはビジネス活動や観光に危険な場所、と日本人に印象付けてしまった。幸い支店長は4か月後に無事救出された。
 国軍参謀長だった私は最高責任者として、無事救出のため、捜索活動の調整にあたった。日本人が友好と平和、相互繁栄に向けて進む限り、我々は仲間として大いに歓迎する。フィリピン人は引き続き日本人の旅行者や駐在の方々の安全を守るよう努力を続けるのはもちろんのことだ。

フィデル・ラモス
Fidel Ramos

アメリカウィリアム・コーエン国防長官(右)と(1998年4月8日)

任期1992年6月30日1998年6月30日
副大統領ジョゼフ・エストラーダ

フィリピンの旗 フィリピン共和国
第17代国防大臣
任期1988年1月22日 – 1991年7月18日
大統領コラソン・アキノ

出生 (1928-03-18) 1928年3月18日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ領フィリピン パンガシナン州リンガエン
死去 (2022-07-31) 2022年7月31日(94歳没)
フィリピンの旗 フィリピンマニラ首都圏マカティ
政党ラカス党など
出身校ウェストポイント陸軍士官学校国費留学
イリノイ州立大学
配偶者アメリタ・マルティネス
子女5人
署名

フィデル・バルデス・ラモス(英語:Fidel Valdez Ramos、通称:FVR1928年3月18日 - 2022年7月31日)は、フィリピン政治家軍人。第12代フィリピン共和国大統領。国防大臣などを務めた。フィリピンの歴史上唯一のプロテスタントの大統領である。

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