掲載時肩書 | KKR共同創業者兼会長 |
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掲載期間 | 2024/10/01〜2024/10/31 |
出身地 | 米国オクラホマ |
生年月日 | 1944/01/18 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 80 歳 |
最終学歴 | 米国コロンビア大学 |
学歴その他 | クレアモント・カレッジ |
入社 | ベア・スターンズ証券 |
配偶者 | 3人目の妻(5歳下:エコノミスト) |
主な仕事 | KKR創業、PE(未公開株式)、資金調達(保険会社、公的年金基金)、ジャンク債、海外進出(英国・韓国・日本)、多角化投資、教育事業 |
恩師・恩人 | ジョージ・ロバーツ(共同創業者:従兄) |
人脈 | ジェリー・コールバーグ(共同創業者)、マイケル・ミルケン、ジョセフ・ベイ、スコット・ナイール、谷田川英治、中西宏明 |
備考 | 父:石油コンサルタント |
氏は外国籍経営者でこの「履歴書」で登場した、ゴードン・ムーア(インテル・1995.2)、ヘルムート・マウハー(ネスレ・1998.8)、ボブ・ガルビン(モトローラ・2000.6)、ジャック・ウエルチ(GE・2001.10)、ルイス・ガースナー(IBM・2002.11)、ルイ・シュバイツアー(ルノー・2005.10)、ラタン・タタ(タタ財閥・2014.7)、タニン・チャラワノン(CPG・2016.7)、カルロス・ゴーン(日産・2017.1)、モフタル・リアディ(リッポーG・2018.5)、ブンヤシット・チョクワタナー(サハG・2021.7)に次いで12番目である。上場企業を買収により費用削減や従業員解雇で荒らす野蛮人とみられていた投資ファンド会社を懇切丁寧に説明してくれていた。
1.KKRの設立と哲学
ジョージ・ロバーツと私はジェリー(ジェローム)・コールバーグと共に投資会社KKRを米国で興した。コールバーグ・クラビス・ロバーツの略称だ。ジェリー(コールバーグ)は87年に社を去ったが、社名は当時のまま残している。KKRは買収ファンドの草分けだ。「プライベート・エクイティ(PE)」や「代替投資」と今は呼ぶ。70~80年代に、米企業の現代の姿を形作った投資手法だ。企業を買収、改革して価値を高める。幹部も社員も自社株を持ち、投資が成功すれば誰もが豊かになれる。ファンドにお金を出すのは保険会社、公的年金基金や財団、近年は個人に及ぶ。私たち自身個人的に、あるいは会社の自己資金で投資している。「共に所有する」という我々の企業哲学の核心だ。
2.投資手法の勉強
1969年ジェリー、ジョージ、私の3人がベア・スターンズ証券で手掛けたのが、「ブーツ・ストラップ」と呼ぶ企業買収ビジネスだ。呼称はその後MBO(マネジメント・バイアウト)やLBO(レバレッジド・バイアウト)と変わり、今はプライベート・エクイティ(PE)と呼ぶ。この仕組みを最初に用いたのがジエリーだ。彼はニューヨークで友人が経営していたスターン・メタルズを買収した。友人は承継問題に悩んでいた。息子に経営は無理という。「大企業への売却も株式公開も嫌だ。方法はないのか?」と相談を持ち掛けた。
ジエリーは金融機関を巻き込んで株の75%を買い上げる一方、25%はその友人が持ち続ける仕組みを考えた。友人は会社に残り、投資家としてリターンも享受する。一方で所有は移せる。それまでなかった買収や投資のアイディアは、私の興味をかき立てた。
3.KKR創業
ジョージ・ロバーツ、ジェリー・コールバーグと私は、1976年4月、ベア・スターンズを飛び出した。ジョージと私が1万ドルずつ、19歳年上で余裕があったジェリーが10万ドルを出して3人の名前を冠した会社、KKRを創業した。この3人で交わした最初の議論は、どんな会社にしたいか。誰もが参加し、オーナーになる。共に働き、足の引っ張り合いはしない。「食い扶持は自分でぶんどれ」式のベアとは大きく異なる。目指すは3人の平等だ。当初はジェリーが40%、私とジョージが30%ずつもらう。将来誰かが経営に加わった場合、ジェリー分を譲って3人を同じ比率にしていく。
会社も計画もできたら、買収先の企業探しだ。インターネットもなく、手探りのきつい仕事だった。そして基本は飛び込み営業だ。株式を公開していない場合、「企業価値の向上を支援します。誰もが豊かになれますよ」。公開企業ならそれに加えて「非公開化をすれば、市場の雑音に翻弄されず、長い目で経営できますよ」。実質初年度の1977年は3社を買収し、どれも高いリターンを挙げられた。買収後は会社をより良くすることに集中した。最初にファンドを組成できたのは78年だ。3500万ドルが集まった。
4.日本企業の特質
1978年、初めて日本を訪れた。買収先の米企業に鉄鋼を納めているメーカーなどを訪ねた。それ以降、毎年訪日を続けたが、日本でのビジネスが容易でないのは直ぐに感じた。日本企業の風土は「We can’t (できない)」だった。私やジョージは反対の「We can (できる)」だ。いつも「コップの水が半分残っている。もう半分を埋めよう」と攻めている。だが会った日本企業のトップからは「変わりたくない」という雰囲気が伝わってきた。忘れられない会話がある。私が日本のCEOに「子会社は何社ありますか?」、続いて「そのうち中核子会社は何社ですか?」と聞いたときだ。そのCEOは子会社の数を「2000社」と答え、その全てが中核だという。とても無理だと思った。企業の手に余る子会社は我々のような会社が買収して成長のために投資をすれば、グローバルに戦える独立した企業になれるはずだ。
PE(プライベート・エクイティ)は今も、費用削減や解雇を強調する古臭い風刺画のように誤解されている。費用を削減するだけで企業価値は高まらない。研究開発や新商品の開発にお金を投じ、競争力を強めるのだ。
5.日本の未来
日本は島国的で、歴史的には多様性を欠いてきた。大手銀行の幹部100人を集めた場で講演し、壇上から景色の違いに驚いたことがある。性別や国籍の多様性がなかった。「国際的ではありませんね」と感想を述べた私に、銀行の会長は「気づきませんでした」と答えた。日本でもこの問題は注目を集めつつある。KKRは多様化の取り組みに賛同する。多様な考え方が良い結果をもたらすのは実証されている。良い悪いはさておき、米国は文化や人種のるつぼだ。移民が来て、教育を受け、会社に入って出世する。移民がなければ米大企業の多くは今存在せず、国も成長しなかった。
若手が活躍する場も限られている。日本企業との会議で、多くの若手は無言でメモを取っている。握手の順番も後ろになりがちだ。KKRの投資決定会議では、もっとも若手から意見を述べる。多くの面で、若手は企業を一番知っている。若手が先輩に遠慮して言いたいことが言えないのはやや危険だ。
6.投資先の多角化
2004年、融資や社債投資の「クレジット(信用)事業」を立ち上げて多角化は始まった。「会社を売りませんか?」の一本やりだったセールストークは変わった。売却に興味がない会社にも、様々な提案ができる。野球に例えると、「打数」が増えたのだ。投資戦略はインフラや不動産など、およそ45に広がった。我々はこれらを顧客の求めに応じるための「ツールキット(道具箱)」と呼ぶ。
多角化は、KKRの土台である起業家精神の発露でもある。企業が成長するにつれ、官僚主義がはびこったり意思決定が遅くなったりする。だからこそ、スタートアップのような雰囲気づくりが欠かせない。世界で2500人を数える社員には、イノベーションや俊敏さを大切にして欲しいのだ。
7.リスクテイク
「変化しなければ廃れる」。人は居心地良い「コンフォートゾーン」を離れるのが苦手だ。だがリスクをとって挑戦しなければ前に進めない。言い換えれば、好奇心が全てなのだ。これは間違いなく、投資家に欠かせない行動だと思う。投資は、人が主役の「ピープル・ビジネス」だ。企業は様々な影響を受けている。地政学的な緊張も、ミクロやマクロ経済の要因も、消費行動や人口動態もだ。それらを探り当てる必要がある。
今日の企業は80年代とも90年代とも違うし、直近10年ですら大きく変わった。企業の課題も、活用するテクノロジーも違う。サプライチェーンは進化を続けている。企業価値をどう創造するかの方法が以前とは様変わりなのだ。最近は新たな試みが加わった。投資先企業の従業員を対象に「オーナーシップ(所有)文化」を創る方法だ。企業価値を創造するために従業員のモチベーションを高める努力を、経営陣ではなく我々株主がする必要になったのだ。