ブンヤシット・チョクワタナー ブンヤシット・チョクワタナー

商業

掲載時肩書サハ・グループ会長
掲載期間2021/07/01〜2021/07/31
出身地タイ
生年月日1937/07/25
掲載回数30 回
執筆時年齢84 歳
最終学歴
中学校
学歴その他心斎橋大学
入社家業手伝い
配偶者記載なし
主な仕事大阪駐在6年、ライオン、独立、下着、HD代表、工業団地、サハG総帥、小売・外食、教育事業
恩師・恩人小林敦、吉田忠雄、塚本幸一
人脈岡田嘉門、小林虎次郎、安藤百福、中島雄一、飯田亮、新浪剛史、白井克彦
備考趣味:パイロット
論評

氏はアジアの財閥系で「私の履歴書」に登場した、インドのタタ・ラタン(タタG財閥:2014.7)、タイのタニン・チャラワン(CPグループ:2016.7)、インドネシアのモタフル・リアディ(リッポーグループ:2018.5)に次いで4番目である。インドのタタ・ラタン以外は華僑であり、同じタイ国のCPグループはロンドン証券取引所に上場し、100か国以上と取引する世界企業であるが、サハ・グループは国内が最大市場と思えた。

1.共存共栄が企業理念
「タイの消費財王」と呼ばれる私たちが手掛けるのは、人々の日常生活に深く関わるモノばかりだ。洗剤や歯磨き粉、化粧品から即席麵、飲料、衣料品に至るまで、3万点を超す商品の製造・販売を行っている。さらに上流の工業団地の開発・運営、下流の小売りや外食、サービスを含めるとグループ会社の会社は約300に上る。このうち約80社は日本企業との合弁だ。
 日本企業との付き合いから学んだ「誠心誠意」「信用第一」は、今に至る私の事業方針になっている。すぐに儲けることは考えず、合弁相手と一緒に苦労する考えだ。

2.大阪の6年間は心斎橋大学
1954年春17歳のとき、バンコックを飛び立ち東京についたのは夜の8時頃だった。東京の夜の街はまだ暗かった。朝鮮戦争が終わったばかりで、米軍兵の姿が目についた。私にとって、人生の目的を見つけさせてくれたのは大阪駐在の6年間だった。自社・協光でのバイヤーの仕事を通じて、ビジネスの面白さに目覚めた。タイから問屋などが来日した時、案内役を務めるのも大事な役目だった。
 大阪に来た当初日本語は全くできなかった。協光社内では漢字の筆談でコミュニケーションをとっていた。社員の中に長く中国に住んだことがある、若林さんという年配の人が中国語に堪能で、よくコンビを組んで仕事をした。彼から日本語の会話を教わり、ひらがなとカタカナは本で独学した。日本語は後に合弁を組む日本企業との関係づくりに役立った。
 私は旧制中学卒だが、学歴を訊かれると「心斎橋大学を出ました」と答える。仕事に目覚め、日本の伝統や文化にも触れた。大阪での経験はかけがえのない財産だ。

3.中韓企業と日本企業との違い
サムスンと組んで驚いたのは、韓国と日本の企業文化の違いである。個人的に親しいとか、付合いが長いとかといった情緒的な発想は皆無。すべてがビジネスライクだ。中興の祖で昨年亡くなった李健熙(イ・ゴンヒ)元会長とは一度だけ会った。正直に言えば、良い印象はない。
 中国勢では2004年に紙容器メーカーの岸宝集団と提携した。近年組んだ企業は岸宝くらいだ。ただ中国は間違いなく魅力的な市場だ。いいパートナーが見つかれば、現地での事業展開を考える必要がある。 相互信頼を重んじる点で、韓国や中国より日本の方が東南アジアの文化に近いと感じてきた。ただ、中韓勢の意思決定の速さは魅力がある。今の日本は「守り」に入っている印象が強いが、中韓は「攻め」の姿勢が鮮明だ。日本企業とは引き続き密接な関係を続けていくが、今後は中韓企業をパートナーに選ぶ場面が増えてくるかもしれない。

4.サハ・グループの未来は(日本の今後と重なる)
これまでのサハは日本企業のタイ進出の水先案内人を務めるのが主なビジネスモデルだった。しかし、タイ市場は徐々に成熟化し、これからは外に出ていく時代になる。我々単独とは限らず、日本企業や他のタイ企業とも手を携えつつ、アジアや欧米に打って出る。ポスト・コロナ時代は新たなビジネスチャンスが必ず開ける。そう信じて次代の成長モデルに思いを馳せている。

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