阿久悠 あく ゆう

文芸

掲載時肩書作詞家・作家
掲載期間2003/05/01〜2003/05/31
出身地兵庫県
生年月日1937/02/07
掲載回数30 回
執筆時年齢66 歳
最終学歴
明治大学
学歴その他洲本高
入社宣弘社
配偶者職場結婚
主な仕事高校大学映画、本、劇場、放送作家と 社員、作詞、甲子園の詩、
恩師伊藤昌隆
人脈上村一夫、池田文雄(スター誕生:中村泰士、森田公一、三木たかし、都倉俊一)、渋谷森久、森昌子・桜田淳子・山口百恵
備考祖父・父:巡査
論評

1937年〈昭和12年〉2月7日 – 2007年〈平成19年〉8月1日)は兵庫県淡路島生まれ。放送作家、詩人、作詞家、小説家。作詞家として数々のヒット曲を送り出す。生涯、作詞した曲は5,000曲以上。ジャンルは歌謡曲、演歌、アイドル歌謡曲、フォークソング、コミックソング、アニメソング、CMソングと幅広い。さらには日本テレビのオーディション番組 『スター誕生!』に番組企画・審査員として関わる。『スター誕生!』の特徴的な企画は各芸能プロダクションの担当者が目に付いた出場者に札を挙げるというものであったが、このスタイルは「密室でタレントを選考する過程を全てガラス張りにして芸能界を裸にしよう」と阿久が提案したものである。以降は小説執筆や演歌の作詞などに比重を移した。

1.広告代理店の試験
昭和33年(1958)、広告代理店の宣弘社を受験した。採用予定は営業部、企画部併せて5人だというのに、130人が応募した。なべ底景気を実証しているような殺気立った受験者の顔に、ぼくはこれはダメだ、到底5人の中に入る筈はないと諦めた。問題は「昭和33年12月1日号と仮定して、「週刊朝日」「週刊アサヒ芸能」「女性自身」のトップ記事の企画を立てなさい」というものであった。
 試験会場の中に悲鳴とブーイングが満ちた。正統的受験勉強がまるで役立たない問題であったからである。逆にぼくは、これなら雑学と時代への興味と、それに加えて作文の力で何とかなりそうだと思った。
「週刊朝日」は、ビジネス特急こだまの運転開始で、東京・大阪が日帰り時代になったサラリーマン事情を、「週刊アサヒ芸能」は、野球の神様が禅寺で修業していることを皮肉に、「女性自身」は、皇太子の妃に決まった正田美智子さんの言葉から、尊敬度、信頼度、清潔度を書いて、合格した。

2.上村一夫は天才
宣弘社企画課で、強烈な印象をぼくに与えた人間は、上村一夫である。武蔵野美術大学に在学中の彼が、アルバイト社員としてここにやって来て、形式上ぼくの下につくことになった。ぼくはその頃、器用さに任せてコピイも絵コンテも描いていたので、絵の方でも手伝わせるかとなったのである。たしか彼が21歳、ぼくが24歳のときであった。
 その時のショックをぼくは忘れない。ほんの何コマかを描いた絵を見ただけで、プロとアマの差はこういうことかと思ったのである。口惜しくもなかった。むしろサバサバとした。ぼくは絵を描く仕事は彼に任せ、テレビ映画をはじめ番組の企画書、時には、プレゼンテーション用のCMソングの仕事に、没頭するようになったのである。生まれて初めて会った天才肌の彼と、後年「平凡パンチ」で一緒に仕事をすることになる。

3.スター誕生の狙い
日本テレビ音楽班のディレクターである池田文雄とは、いくつかの番組を一緒に手掛けていた。その中に「スター誕生」の企画書もあった。彼とはテレビから誕生したスターの必要性を話していた。それは、テレビの持つ特性である日常性を魅力にしたスターは、まだいなかったからである。ぼくは、テレビのスターとは、「手の届きそうな高根の花か、手の届かない隣のミヨちゃん」であるべきだと言っていた。
 ぼくらは発足したこの「スター誕生」番組から、どうしたらテレビ時代のスターを誕生させられるか、だけを考えていた。欲しいのは結果であった。結果は2つあり、一つはテレビ番組として高視聴率を稼ぐことと、もう一つは、スターとしてヒット曲が生まれなければ失敗になるだろうと、ぼくらは話し合っていた。だから、最初の10年間は萩本欽一が司会をし、阿久悠、中村泰士、森田公一、三木たかし、都倉俊一、松田敏江が審査員を務めた。ぼくらは実に10年間、信じられないほどの情熱と誠意と、また、大いなる野心も込めて一つの番組に関わったのである。当初は、テレビ時代のスターの発掘が目的であったのだが、ぼくは途中でひそかに、作詞家、作曲家の一般的イメージを引き上げ、同時に社会的地位も高めたかったのだ。

阿久 悠
出生名 深田 公之
別名 多夢 星人
生誕 1937年2月7日
出身地 日本の旗 日本
兵庫県津名郡鮎原村(現:洲本市五色町鮎原)
死没 (2007-08-01) 2007年8月1日(70歳没)
日本の旗 日本
東京都港区西新橋東京慈恵会医科大学附属病院[1]
学歴 明治大学文学部
ジャンル 歌謡曲
職業 作詞家放送作家小説家
活動期間 1964年 - 2007年

阿久 悠(あく ゆう、1937年〈昭和12年〉2月7日 - 2007年〈平成19年〉8月1日[2])は、日本放送作家詩人作詞家小説家。本名、深田 公之(ふかだ ひろゆき)[3]淡路島兵庫県津名郡鮎原村、現:洲本市五色町鮎原)出身。第2回横溝正史ミステリ大賞、第45回菊池寛賞受賞。紫綬褒章旭日小綬章受章。

  1. ^ “阿久悠さんが尿管がんで死去”. デイリースポーツ. (2007年8月1日). オリジナルの2008年2月24日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20080224061512/http://www.daily.co.jp/newsflash/2007/08/01/0000504071.shtml 2019年12月23日閲覧。 
  2. ^ 阿久悠さん尿管がんで死去、70歳”. nikkansports.com (2007年8月1日). 2020年7月31日閲覧。
  3. ^ 宣弘社フォトニクル 2015, pp. 2-5, 「プロローグ」
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