長谷川伸 はせがわ しん

文芸

掲載時肩書作家
掲載期間1956/09/06〜1956/09/21
出身地神奈川県
生年月日1884/03/15
掲載回数16 回
執筆時年齢72 歳
最終学歴
小学校
学歴その他
入社小間物売り 小僧
配偶者亡妻政江
主な仕事住込み小僧、出前持ち、行商、新聞記者、「瞼の母」73枚で37本目の戯曲「明治座」、「一本刀土俵入り」52歳で母に再会
恩師・恩人松本恵子 (実母所在・知らせ主)
人脈三谷隆正(異父弟:一高教授)母が実母、江戸川乱歩、村松梢風、直木三十五、俵藤丈夫、
備考父:材木屋 旦那没落
論評

1884年(明治17年)3月15日 – 1963年(昭和38年)6月11日)は神奈川県生まれ。日本の小説家、劇作家。本名は長谷川 伸二郎(はせがわ しんじろう)。大衆文芸作家であり、人情の機微に通じ、股旅物の作者として知られた。「股旅物」というジャンルを開発したのはこの長谷川であり、作中できられる「仁義」は実家が没落して若い頃に人夫ぐらしをしていた際に覚えたものをモデルにしたという。

1.「瞼の母」初演
戯曲「瞼の母」二幕は、昭和5年(1930)1月25日から31日まで、客を謝絶し、郵便物をも手に取らず、家のものとほとんど口もきかず、深夜に銭湯に行って帰って、またとりかかり、というやり方で73枚にでき上ったので、雑誌「騒人」に載せた。これは私の37本目の戯曲であった。上演されたのは翌年3月の明治座であるから、発表してから、1年と1か月ぐらい経った後である。
 この初演の時、この戯曲に不服の人が相当に多く、面と向かって私に、抗議・非難や不満の皮肉を、聞かせたり見せたりする人があった。明治座初演の番場の忠太郎は、先代の守田勘弥で、その母の、水熊の女将おはまは尾上多賀之丞君。その初日に水熊のおはまの部屋場面が済み、大詰めの堤(どて)場が開き、勘弥の忠太郎が、朝霧の中から聞こえてくる母と妹の呼ぶ声に背いて、花道をいっさんに駆けこむ・・・・と、揚場番さんが顔を背けて言ったそうである。
「旦那、こんどのこの芝居はたまらねぇ、あっしは旦那、これと同じ身の上なンです」、と言いもあえず慟哭したとも、また横を向いたままであったが、その横顔は、涙にぬれて光っていたともいう。

2.母に逢いたくて
42か3のとき私は、母に逢いたくて旅に出た。兄は没していた。作家生活にまだ入っていなかったが、デタラメな名で、小説みたいなものを幾つか書いていた。この旅は空しかった。50近くになって旅にまた出た。もう作家生活に入っていて、もしものとき母のために右から左へ使える金を30円もっていた。30円はその頃の私には精一杯の余裕であった。二度目の時は300円を別に用意することができた、がこの旅も空しかった。
 このときの30円、300円の金は、「瞼の母」の水熊のところで、忠太郎の台詞の中に入っている「顔も知らねぇ母親に、縁があってめぐりあって、豊かに暮らしていればいいが、もしひよッと、貧乏に苦しんででもいるのだったら、手土産代わりと心がけて、何があっても手も付けず、この百両は長え事、抱いてぬくめて来たんでござんす」が、そうである。

3.実母所在を知らせる手紙(松本恵子氏から)
長谷川伸様 
 「瞼の母」を語っていらっしゃるあなたに、お母上さまが幾十年間、長谷川家に残してこられたあなた方ご兄弟のことを、夢に見、幻に見続けていらしたお心を、ぜひお伝えしなければならないと存じ、突然ながらペンを執りました。お母上さまは今年72歳のご高齢で、三谷家の長男隆正氏のもとに、御幸福にお過ごしになっておられますが、「瞼の母」故に、年老いたお心を、どんなに悲しいものにされていらっしゃるでしょう。「‥私が家を出るとき、がんぜない伸は、僕がいまに大きくなって、軍人になって、お馬に乗ってお迎えに行ってあげるからね、お母さん、泣くんじゃないよといったあの声が、未だに耳に残っています。あの小さな子供は、今どこにいるんでしょう。本当に、たった一目でいいから会いたいと思います」。
 これはあなたのお母上さまが漏らされた、ご述懐でした。ある日、お母上さまのために、お馬に乗った軍人さんになってあげてくださいますように、お願い申し上げます。 2月9日 松本恵子

4.実母との再会
52歳の私の訪れに応対に出てきた人は、母であったと此方は気が付いたが、母の方では知らないのである。頭でっかちであった4歳の男の子の記憶から、小鬢の髭に白毛が混じる現在の私を、思い当ろうとすることは、クイズの解答がうまい人でも出来ないだろう。「突然お騒がせいたします。私は長谷川の、伸でございますが」と私は言ったが、73歳の母は「伸でございます」が聞き取れなかったので、その日、来訪するかもしれない、長谷川という学生の伯父と間違えて、客間へ導いて、アトは女中に任せ、客間を引き取った。
 間もなく次の間のふすまが開いて、12年前に亡くなった兄の日出太郎が顔を出したが、声が違う。「ああッ伸さんですかッ」と、びっくりした目を輝かせて、言った。そして異父妹たちも集まってきた。それによると、
「年久しくたって母は、長谷川家の長男が病死したことと、次男が無頼漢に成り下がっていることを、どこからか聞いた」という、次男とは私のことである。
 母は、無頼漢になった次男のために、縫物の針をとどめ、イエスに祈ることが何度もあったという。また、母は3人の娘の誰だかに漏らしたという、雪の降る日、そこの窓を叩く者が伸であったらどうしよう、家のものに隠れて、密かに結飯(むすび)をつくってやらなくてはならない伸であったら、どうしようと、言いも終わらず祈りをささげたという。
 そして後に、私は問われれば答える。東に向けば言う、「血の濃さよりも優れた愛情の方が濃いのだ」と。西に向けば言う、「別れた親に会いたい子は人らしい人になって待つのだね、別れた子に会いたい親は人らしい人になっていてやるのだね」と。東に向けていったのは、親に死なれている子への言葉なのである。この言葉、おそらく人々を素通りすることだろう・・・。

追悼

「私の履歴書」に登場する別冊「文化人」を読んでいて、新国劇の名作「瞼の母」の原作者(長谷川伸)とそれを演じる役者(島田正吾)の双方が芝居と現実とがごっちゃになった経験を持ったことを知った。

1.原作者(長谷川伸)の場合:
番場の忠太郎が登場する名作「瞼の母」は彼の母とその亡妻の実話から生まれていた。亡妻政江には「瞼の父」があった。6歳のとき、生まれてそれまで育った、信州木曾の村を母と共に逐われて出た。その村の名家で豪農の当主の子に生まれながら、亡妻は、駐在所の巡査の子として戸籍に登録されていた。大正10年秋、彼女は父の夢を3晩も続けて見たので、不安に思い再会を決意した。そこで、信州の豪壮な屋敷を二人で訪ねていくと、彼女の父は胸まで垂れる髭のある、品のいいおやじであった。しかし、彼女がそのおやじと、客座敷で向き合って話すのを、脇で聴いているうちに彼は、こんなところに来るのではなかったと思い、先方のスキをうかがって彼女に訊くと、やはり彼と同じことを感じとっていたので彼女に代わって彼が、T(父)とT家とに告別の言葉を述べて、外に出た。「瞼の母」の水熊の内で、忠太郎が立ち去って行くときの台詞は、そのときの言葉から出たものであった。つまり、「二度と再びおたずね申しはしませン、まあおたっしゃでお暮しなさい」とイヤ味とうらみと情けなさを一つにして言ったのである。     
 ふたりは、この屋敷の女房娘が、納戸だか台所だかに立てこもり、一家一門の主なるものを呼び集め、相談をやっているのを、とっくに知っていたのである。
「考えてみりゃ俺もバカよ。幼いときに別れた生みの母は、こう瞼の上下ぴったり合わせ、思い出しゃあ絵で描くように見えたものを、わざわざ骨を折って消してしまった」の台詞だった。
 また、長谷川は4歳のとき別れ、52歳の春に実母に会うのをためらったのもこのことが原因である。やっと決心をして73歳の母を訪ねて、異父妹に聴くと「母は、無頼漢になった次男(伸)のために、縫物の針の手をとどめ、イエスに祈ることが何度もあった」。この話を聴き、47年間のあいだの母の思いやりに彼は泣いたという。

2.役者(島田正吾)の場合:
優しかった母親が8歳のとき病死した。やがて継母が来てくれ我が子のように可愛がってくれた。しかし、この継母は彼と同い年の男児を前の婚家に残しての再婚で、実子への思いで彼に愛情を注いでくれた感じであった。彼が12歳の時、父親が死ぬと継母は家を去り消息を絶った。彼は天涯孤独となり、この母親を求めて涙にくれた。後年彼が役者として名が出てきて「瞼の母」を演じたとき、実子に伴なわれてこの母親が芝居小屋を訪ねてきた。彼はこの芝居を演じるとき、ひとりでに足がわなわなと震えてどうしようもなかった。芝居が終わり、出口で対面したとき「お前、いい役者になったねぇ・・」と褒めてもらったことを、千の劇評でほめられたように嬉しく感じたと語っている。

3.舞台の初演時の両者
そして、彼がこの舞台の初演の時、2階の桟敷席から長谷川伸が食い入るように観ていた。彼が忠太郎になって演ずるとき、芝居と現実がダブってしまい、涙ながらの演技となった。2階を見上げると「伸先生も豆絞りの手ぬぐいてなんべんもなんべんも涙を拭われた。それを見ると芝居半ばで、危うくセリフを絶句しそうになった」と書いている。この素晴らしい光景を読んで私も涙ぐんでしまった。やっぱり「履歴書」はいいなぁ。
 

長谷川 伸
(はせがわ しん)
Shin Hasegawa.jpg
1931年頃
誕生 長谷川伸二郎
1884年3月15日
日本の旗 日本神奈川県横浜市日ノ出町
死没 (1963-06-11) 1963年6月11日(79歳没)
日本の旗 日本東京都中央区明石町
墓地 高福院(東京都品川区)
職業 小説家
劇作家
言語 日本語
活動期間 1914年 - 1963年
ジャンル 小説
主題 股旅物
代表作関の弥太っぺ』(1930年)
『瞼の母』(1936年)
『荒木又右衛門』(1951年)
主な受賞歴 菊池寛賞(1956年)
朝日賞(1962年)
配偶者 まさえ、七保
子供 美津枝
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長谷川 伸(はせがわ しん、1884年明治17年)3月15日 - 1963年昭和38年)6月11日)は日本の小説家[1]劇作家[2]。本名は長谷川 伸二郎[1](はせがわ しんじろう)。使用した筆名には他にも山野 芋作(やまの いもさく)と長谷川 芋生(はせがわ いもお)があり、またそのほか春風楼、浜の里人、漫々亭、冷々亭、冷々亭主人などを号している(筆名が多いのは新聞記者時代の副業ゆえ名を秘したためである)。

大衆文芸作家であり、人情の機微に通じ、股旅物の作者として知られた[2][3]。「股旅物」というジャンルを開発したのはこの長谷川であり、作中できられる「仁義」は実家が没落して若い頃に人夫ぐらしをしていた際に覚えたものをモデルにしたという。

長谷川伸生誕地の碑(横浜市)
  1. ^ a b 長谷川 伸とは コトバンク。2018年11月9日閲覧。
  2. ^ a b 『人事興信録 第13版 下』ハ40頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年11月9日閲覧。
  3. ^ 『人事興信録 第11版 下』ハ55頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年11月9日閲覧。
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