長谷川伸 はせがわ しん

文芸

掲載時肩書作家
掲載期間1956/09/06〜1956/09/21
出身地神奈川県
生年月日1884/03/15
掲載回数16 回
執筆時年齢72 歳
最終学歴
小学校
学歴その他
入社小間物売り 小僧
配偶者亡妻政江
主な仕事「瞼の母」73枚・37本目の戯曲、 「一本刀土俵入り」51歳で母に再会
恩師松本恵子 (母所在)
人脈住込み小僧、出前持ち、行商、新聞記者、三谷隆正(一高教授)妻が母
備考材木屋 旦那没落
論評

「私の履歴書」に登場する文化人を読んでいて、新国劇の名作「瞼の母」の原作者(長谷川伸)とそれを演じる役者(島田正吾)の双方が芝居と現実とがごっちゃになった経験を持ったことを知った喜びは大きい。
原作者(長谷川伸)の場合:番場の忠太郎が登場する名作「瞼の母」は彼の母とその亡妻の実話から生まれていた。亡妻政江には「瞼の父」があった。6歳のとき、生まれてそれまで育った、信州木曾の村を母と共に逐われて出た。その村の名家で豪農の当主の子に生まれながら、亡妻は、駐在所の巡査の子として戸籍に登録されていた。大正10年秋、彼女は父の夢を3晩も続けて見たので、不安に思い再会を決意した。そこで、信州の豪壮な屋敷を二人で訪ねていくと、彼女の父は胸まで垂れる髭のある、品のいいおやじであった。しかし、彼女がそのおやじと、客座敷で向き合って話すのを、脇で聴いているうちに彼は、こんなところに来るのではなかったと思い、先方のスキをうかがって彼女に訊くと、やはり彼と同じことを感じとっていたので彼女に代わって彼が、T(父)とT家とに告別の言葉を述べて、外に出た。「瞼の母」の水熊の内で、忠太郎が立ち去って行くときの台詞は、そのときの言葉から出たものであった。つまり、「二度と再びおたずね申しはしませン、まあおたっしゃでお暮しなさい」とイヤ味とうらみと情けなさを一つにして言ったのである。ふたりは、この屋敷の女房娘が、納戸だか台所だかに立てこもり、一家一門の主なるものを呼び集め、相談をやっているのを、とっくに知っていたのである。
「考えてみりゃ俺もバカよ。幼いときに別れた生みの母は、こう瞼の上下ぴったり合わせ、思い出しゃあ絵で描くように見えたものを、わざわざ骨を折って消してしまった」の台詞だった。
また、長谷川は4歳のとき別れ、52歳の春に実母に会うのをためらったのもこのことが原因である。やっと決心をして73歳の母を訪ねて、異父妹に聴くと「母は、無頼漢になった次男(伸)のために、縫物の針の手をとどめ、イエスに祈ることが何度もあった」。この話を聴き、47年間のあいだの母の思いやりに彼は泣いたという。
役者(島田正吾)の場合:優しかった母親が8歳のとき病死した。やがて継母が来てくれ我が子のように可愛がってくれた。しかし、この継母は彼と同い年の男児を前の婚家に残しての再婚で、実子への思いで彼に愛情を注いでくれた感じであった。彼が12歳の時、父親が死ぬと継母は家を去り消息を絶った。彼は天涯孤独となり、この母親を求めて涙にくれた。後年彼が役者として名が出てきて「瞼の母」を演じたとき、実子に伴なわれてこの母親が芝居小屋を訪ねてきた。彼はこの芝居を演じるとき、ひとりでに足がわなわなと震えてどうしようもなかった。芝居が終わり、出口で対面したとき「お前、いい役者になったねぇ・・」と褒めてもらったことを、千の劇評でほめられたように嬉しく感じたと語っている。
そして、彼がこの舞台の初演の時、2階の桟敷席から長谷川伸が食い入るように観ていた。彼が忠太郎になって演ずるとき、芝居と現実がダブってしまい、涙ながらの演技となった。2階を見上げると「伸先生も豆絞りの手ぬぐいてなんべんもなんべんも涙を拭われた。それを見ると芝居半ばで、危うくセリフを絶句しそうになった」と書いている。この素晴らしい光景を読んで私も涙ぐんでしまった。「履歴書」はいいなぁ。
このエピソードを読んで下記URLで名曲「瞼の母」を聴いていただけませんか。
http://www.youtube.com/watch?v=ctN-AfqYIdQ

長谷川 伸
(はせがわ しん)
Shin Hasegawa.jpg
1931年頃
誕生 長谷川伸二郎
1884年3月15日
日本の旗 日本神奈川県横浜市日ノ出町
死没 (1963-06-11) 1963年6月11日(79歳没)
日本の旗 日本東京都中央区明石町
墓地 高福院(東京都品川区)
職業 小説家
劇作家
言語 日本語
活動期間 1914年 - 1963年
ジャンル 小説
主題 股旅物
代表作関の弥太っぺ』(1930)
『瞼の母』(1936)
『荒木又右衛門』(1951)
配偶者 まさえ、七保
子供 美津枝
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長谷川 伸(はせがわ しん、1884年明治17年)3月15日 - 1963年昭和38年)6月11日)は日本の小説家[1]劇作家[2]。本名は長谷川 伸二郎[1](はせがわ しんじろう)。使用した筆名には他にも山野 芋作(やまの いもさく)と長谷川 芋生(はせがわ いもお)があり、またそのほか春風楼、浜の里人、漫々亭、冷々亭、冷々亭主人などを号している(筆名が多いのは新聞記者時代の副業ゆえ名を秘したためである)。

大衆文芸作家であり、人情の機微に通じ、股旅物の作者として知られた[2][3]。「股旅物」というジャンルを開発したのはこの長谷川であり、作中できられる「仁義」は実家が没落して若い頃に人夫ぐらしをしていた際に覚えたものをモデルにしたという。

長谷川伸生誕地の碑(横浜市)
  1. ^ a b 長谷川 伸とは コトバンク。2018年11月9日閲覧。
  2. ^ a b 『人事興信録 第13版 下』ハ40頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年11月9日閲覧。
  3. ^ 『人事興信録 第11版 下』ハ55頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年11月9日閲覧。
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