長嶋茂雄 ながしま しげお

スポーツ

掲載時肩書読売巨人軍終身名誉監督
掲載期間2007/07/01〜2007/07/31
出身地千葉県
生年月日1936/02/20
掲載回数31 回
執筆時年齢71 歳
最終学歴
立教大学
学歴その他
入社巨人
配偶者東京五輪コンパ ニオン
主な仕事プロ1年4番・3割、天覧試合・ON1号、叱られ役、V9,監督解任、再登場
恩師・恩人砂押監督
人脈本屋敷・杉浦、金田5三振、王、村山 、瀬島龍三、原・松井、
備考陽気、天性の運動能力
論評

5日に国民栄誉賞に長嶋茂雄氏と松井秀樹氏が輝いた。私には長嶋氏は当然だと思うが、松井氏の受賞は疑問符が付く。イチローや野茂英雄、金田正一など優れた業績の人がいるからだ。国民栄誉賞には既に王貞治氏や衣笠祥雄氏がいるが日経「私の履歴書」には登場していない。この「履歴書」には近年、稲尾和久(2001年7月)、野村克也(2005年6月)、長嶋(2007年7月)、吉田義男(2008年6月)、広岡達朗(2010年8月)の5人がいる。どの登場人物も長嶋の「天才ぶりと動物的感の男」を紹介している。

稲尾は長嶋対決で次のように書いている。
「相手が感性で来るなら、こちらももう理屈はやめだ。感性で勝負するしかない。0勝3敗で迎えた1958年の日本シリーズ第4戦。長嶋封じに、いちかばちか奥の手を使うしかなかった。ノーサインで投げるのだ。瞬間芸の勝負。こちらがモーションを起こすとさすがの長嶋さんにも微妙な気配が生じる。踏み込んで来たら、テークバックで握りを変え、スライダーからシュートに、あるいはコースを切り替える。引っ張りにかかる気配がしたら、その瞬間さっと外に逃げるのだ。この感性勝負で長嶋さんに勝った。三飛」。これで3連敗から4連勝になりシリーズ制覇となった記録すべき転換点だった。

また、野村は打者から怖れられた「魔の囁き作戦」(心理かく乱戦法)で次のように書いている。「日本シリーズやオールスターで対戦した巨人の王は、人がいいから話しかけると答えが返ってくる。だが、まったく会話にならなかったのが長嶋だ。「チョーさん、最近銀座に出てるの」と尋ねても、「このピッチャどお?」と違うことを聞いてくる。一球投げると「いい球なげるねぇ」。ささやきが全く通じない。つくづく人間離れしている、と感じたものだ」。

しかし、長嶋はマスコミに「長嶋は野球の天才である。動物的感の男だ」と書かれて、いわゆる長嶋像として定着したが、「私は、天才肌でもなんでもない。夜中の一時、二時に苦闘してバットを振っている。自分との技への血みどろの格闘を一人で必死にやっていた」述懐している。 それでも、「絶好調の時は、怖いものなし。どんな球でもいらっしゃい。インコースだろうがアウトコースだろうが、この状態になると「来た球を打つ」だけ。私が「来た」と思えば、それは私のストライクゾ-ンとなる。悪球打ちいうが、敬遠ボールやウエストボールをホームランにしたり逆転打にしたのも、マイゾーンに入ってくるからだ。そんな時、投げた球がソフトボールぐらいに見えて打てない気がしなかった」とも書いている。勝負時にはめっぽう強く、他人の悪口を言わない長嶋はやっぱり今でもみんなのヒーローだ。

「彼がジャイアンツ監督を辞任する」発表はテレビ・ラジオ・新聞で大々的に取り上げられた。当日夜のテレビ・ラジオは勿論のこと翌日の新聞、日本経済新聞の「春秋」欄にまで登場したのには驚いた。それほど好感を持たれていた証拠なのでしょう。阪神ファンの私も彼の憎めない性格には好感を持っていました。
9/29の上記「春秋」欄には彼のエピソードを紹介していました。
1.新人の年、ベースを踏み忘れホームランを1本損をした。
2.監督時代、代打を告げるときバントの仕草をして相手チームに見破られた。
3.大学時代、英語時間「I live in Tokyo」を過去形に直しなさいと言われて
しばらく考えた結果、長嶋青年は「I live in Edo」と答えた。

その他、私自身も「ホームランを打ってスキップアップしながら生還する姿」や「暴球である高めのボールをホームランし、頭あたりの球を打った」と笑いながら生還している姿などはユーモアがあってみんなを楽しませたものでした。きっと読売(日本)テレビの徳光アナウンサーは当分の間、長嶋エピソードを放送し続けることでしょう。

「長嶋さんは太陽」だが「私は月見草」と野村監督はそう比較表現しました。同年齢で輝かしい球界業績を残している二人ですが、人気では比べようがありません。私は野村監督が好きですので、長嶋さんが去った後、花を咲かせてほしいと念じています。早くもう一度「六甲おろし」を歌いたいなぁ。

追悼

氏は2025年6月3日、89歳で亡くなった。「私の履歴書」に登場は18年前の2007年7月、71歳の時でした。3日の夕刊、テレビ、ラジオ、翌日の新聞は各社とも、氏の訃報を大きく採り上げ報道していた。日本経済新聞も第一面と「春秋」、二面の「社説」、それにスポーツ欄と社会欄は全面一頁を使って、時代のヒーロー長嶋茂雄を称え、追悼していた。喪主は次女の三奈さんで父親と確執のあった一茂氏ではなかった。「私の履歴書」から興味深いエピソードを抽出する。

1.メンタルトレーニング(中高時代)
NHKのラジオ放送の実況で憧れたのは、タイガースの藤村富美男さん。物干しざおの異名をとった長大な黒バットをビュンビュン振り回して好打連発。塁に出ると猛然とヘッドスライディングをやってのけ、サードを守っては猛ゴロを素手で捕ってジャンピングスロー。しびれた。
 庭にある樹齢30年の柿の木の下でバットを振るのが日課だった。後楽園に行った日は夕方、余韻冷めやらぬうちに「長嶋、打ちました」と藤村さんのフォームを真似た。下手でも振って振って、好きで好きで夢中でやった。今でいうメンタルトレーニングだろう。スター選手の物まねを一通りおさらいした後、いよいよ私の独断場の世界に入る。「バッターは四番、長嶋、悠々バッターボックスに入ります。構えました。第一級はカーブ、ボールです。第二球、長嶋、打ちました。ボールはぐんぐん伸びております。センターバック、センターバック。ホームラン、長嶋、見事なホームランです」
 とっぷり日の暮れた柿の木の下で、自己陶酔の実況アナウンスが夢を膨らませた。もうジャイアンツの未来の四番になりきっていた。

2.天覧試合のホームラン
1959年6月25日は、まさにプロ野球がメジャーとなる歴史的な日となった。巨人―阪神11回戦がその舞台だった。「おーい、行くぞ」。同じ町内の下宿先に川上哲治さんが愛車オースチンで迎えに来た。「昨夜はよく眠れたか」「何だか興奮してしまって」「君は興奮した方が打つからなぁ。今日はいいゲームをお見せしたいものだな」。球場に着くと水原茂監督も「長嶋、よく眠れたか」と聞く。戦前派の監督は一週間前から緊張で眠れず、この日は斎戒沐浴しての出陣だった。
 1点先行された5回裏、私の12号と5番坂崎のソロで逆転したが、6回に阪神の藤本の2ランなどで2-4と再逆転される。ところが7回に新人の王貞治が小山さんから右翼席へ同点の2ランを放ち、また振り出しにした。これは王さんと私の記念すべき「ONアベック本塁打」の第1号だった。
 追いつ追われつの凄いデッドヒート。小山さんをルーキーの村山実がリリーフ、4-4のままいよいよ9回裏まで来た。両陛下のお帰りになる時間も迫っている。先頭打者として打席に立った私は「打ちたい。必ず打てる」。いつもこの暗示をかけた。2-2からの5球目だった。運命の1球はインコースの高めに来たストレート。振り抜くと左翼席上段に消えていった。このサヨナラ本塁打に、両陛下は身を乗り出されて拍手を送られる。「ああ、野球をやっててよかった」としみじみ思った。

3.電撃結婚
1964年10月10日、華々しく東京オリンピックが開幕した。報知新聞の「ON五輪を行く」という取材で、王さんと開会式から2週間、日替わりで、五輪会場を飛び回った。ちょうど折り返しの17日、大会を支える五輪コンパニオンとの座談会が企画された。宮家や外交官の子女が多く、ほとんどが海外留学の経験があるバイリンガル・ギャル。その5人の中に女房となる西村亜希子がいた。アメリカの聖テレサ大を卒業して日本に帰ってきたのが3か月前だという。4か国語を操るというので、どんなに凄いインテリかと内心怖れたが、話してみると素直で明るいお嬢さんだ。中学を出て単身アメリカに勉強に行ったというその根性にグッときた。もう一目ぼれである。
 翌日から彼女のことが気になって仕方がない。競技場でコンパニオン姿を見つけると王さんから双眼鏡をひったくって彼女を探した。座談会でしっかり彼女の勤務時間を確認していた。コンパニオンは朝の9時に帝国ホテルの本部で打合せてから会場に散る。逆算すれば8時前がいい。朝の電話でデートを申し込もう。ありったけの目覚まし時計を6時にセットしたが、気分が高まって2時間も前に目が覚めた。時間つぶしに、家の前のどぶ板を外して両側全部のどぶ掃除をした。それでも時間が余る。今度は、家から京王線の上北沢駅まで200mほどの道路をチリひとつないくらいに掃いて回った。それから毎朝電話をかけた。
 11月26日の報知新聞に「長嶋選手婚約・五輪が結ぶ恋」とスクープされる。婚約は、知り合って40日目。強攻策が実ったというしかない。「お嬢様をいただきたく、こうしてお願いに参上・・・」。介添え役の口上が終わるや、あまりにコチコチになった私の姿に、ご両親は一斉に吹きだしてしまわれた。

4.脳梗塞・再起のリハビリ
2004年、アテネ五輪野球監督の大役が与えられたが、本番5か月前の3月4日早朝、脳に異変が起きた。東京・新宿にある東京女子医大病院に運ばれた。脳梗塞の発作で生死の境をさ迷い、気が付いたのは2日たってから。心房細動(不整脈)が起きて、冠動脈の中に血栓ができた。その血の塊が数秒後には、脳の方にも運ばれ、大脳に最も重要な太い血管を詰まらせた。病名は「心原性脳塞栓症」というものだ。
 長男の一茂が報道陣に対応したが、「3日間は1日1日がヤマ」と医師に言われており、あとで周りから冷静に対応したと言われても、本人は心ここにあらずでうろたえていたらしい。多くのファンに励まされ、何とか五輪までに復帰を、とリハビリを頑張った。
6月になると一茂が「誰が何と言おうと家族の一人としてアテネには行かせるわけにはいかない」という。悔しさが爆発して「何を言っているんだ」と息子に抵抗したものの、冷静に考えれば、真夏のアテネという過酷な戦場で指揮を執るほどの気力も体力もなかった。
 あれから毎朝1時間の散歩を日課にしている。筋トレで右足は80%ほど回復した。この「私の履歴書」の題字(名前の上)も写経で特訓している左手で書いてみたが、どうだろう。五輪の夢舞台には届かなかったが、多くの人が同じ病気で必死に闘っていると思うと甘えてはいられない。
(左手で書いた「私の履歴書」題字はホームページの「楽しむ」の中の「サインとデザイン」をご覧ください。

長嶋 茂雄 / 長島 茂雄
読売ジャイアンツ 終身名誉監督 #3
文化勲章受章に際して
公表された肖像写真
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 千葉県印旛郡臼井町(現:佐倉市臼井
生年月日 (1936-02-20) 1936年2月20日
没年月日 (2025-06-03) 2025年6月3日(89歳没)
日本の旗 日本 東京都
身長
体重
178 cm
76 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 三塁手
プロ入り 1958年
初出場 1958年4月5日
最終出場 1974年10月14日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
  • 読売ジャイアンツ (1972 - 1980, 1993 - 2001)
  • 日本代表 (2003 - 2004)
野球殿堂(日本)
殿堂表彰者
選出年 1988年
選出方法 競技者表彰

長嶋 茂雄[注 1](ながしま しげお、1936年昭和11年〉2月20日 - 2025年令和7年〉6月3日[1])は、千葉県印旛郡臼井町(現:佐倉市臼井)出身のプロ野球選手内野手、右投右打)・監督読売ジャイアンツ終身名誉監督株式会社読売巨人軍専務取締役日本プロ野球名球会顧問、ジャイアンツアカデミー名誉校長。


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  1. ^ 長嶋茂雄・巨人軍終身名誉監督が死去、89歳…巨人の黄金時代築いた「ミスタープロ野球」」『読売新聞』2025年6月3日。2025年6月3日閲覧。
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