建設・不動産
掲載時肩書 | 日揮グループ代表 |
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掲載期間 | 2015/02/01〜2015/02/28 |
出身地 | 宮崎県 |
生年月日 | 1933/11/18 |
掲載回数 | 27 回 |
執筆時年齢 | 82 歳 |
最終学歴 | 慶應大学 |
学歴その他 | |
入社 | 田安商事 |
配偶者 | 下宿娘(3歳上) |
主な仕事 | 日本揮発油、韓国、南米3job(大プロジェクト案件)、indnesia、 中東、speak up(思い切って話しかけろ!), |
恩師・恩人 | 篠田治 男社長 |
人脈 | 稲盛和夫、渡辺英二、小池百合子、根本二郎、 |
備考 | 中村天風哲学、 |
1933年(昭和8年)11月18日 – )は宮崎県生まれ。日本の実業家。日揮名誉顧問。日揮元代表取締役社長・会長・日揮グループ代表・相談役。重久氏は日本工営、千代田化工など同業のプラント企業としては、日本工営の久保田豊に続いて2番目の登場人物となる。また、中村天風先生を尊敬しており、心と体を積極化させる哲学「心身統一法」の信奉者であることが分かり、天風会員である私はうれしかった。
1.エンジニアリング会社とは
氏は日揮グループをプラント企業とはいわずにエンジニアリング会社だと説明している。エンジニアリングとは、「設計する」「設備をつくる」「建設する」「プロジェクトを管理する」ことで、一口で表現すれば「相手国の役に立つ施設を、多国籍にわたる多数の人や企業を使ってまとめ上げ、十分に完成させる」ことである。
「まとめあげる」とは概念段階から具体的な設計、資材や機器の購入、建設工事までを含めている。プロジェクトの中身は、油ガス田の生産設備から石油精製、石油化学、液化天然ガス(LNG)などのプラント、原子力関係、医薬品工場、医療施設など幅広い。近年は造水・発電、資源開発、環境・新エネルギー、都市開発などインフラの事業も始めている。これらの事業は途上国に限らず全世界で非常にニーズの高いものである。
2.初出張で初受注
1960年代初頭の日揮(当時は日本揮発油)は国内の製油所、石化プラントなどの新設ブームで、私の配属された海外営業を冷ややかな目で見る人が多かった。私はそんな空気に反発して、何か海外の仕事を取って、目にもの見せてやろうと駆けずり回っていた。そんなとき、モービル香港法人を紹介してもらった。入社2年目の社員にしては香港のいいホテルに泊まった記憶がある。
翌日、紹介されたモービルの香港法人を訪問。通された部屋にはテーブルを挟んで5,6人が並んでいた。英語のプレゼンテーションは初めてだったが、必死に日揮が石油関連設備で豊富な経験を持つことを説明した。手応えもあまり感じないまま、検討の約束だけは受け取った。翌日、オフィスを再訪すると「君のところでLPGタンクはつくれるか?」と問われた。LPGは常温高圧で液化された石油ガスで家庭用のボンベなどでおなじみだ。
日揮がLPGタンクをつくった経験があるかなど入社2年目の私が知るわけがない。だが、躊躇すればモービルとの縁はなくなる。「Why not?(当たり前だ)」と口が勝手に動いていた。営業は現場の気合で決まることが多い。慎重さより顧客の求めには何でも答えよう、という熱意こそ受注を決める。香港は私にとって試金石だった。
日本に帰ると設計部門から散々怒られた。LPGタンクなど経験がなかったのだ。嫌がる設計部門と協力会社を拝み倒し、何とか見積りを作り、正式受注した。
3.南米で3ジョブ(大型プロジェクト)
私は1969年初めに3年半の任期を終え、ソウルから帰国した。ソウルにいた60年代後半の日本は57か月も続いた「いざなぎ景気」に沸き、その勢いに乗って、多くの日本企業が海外市場に進出していった。日揮にとっても韓国だけでなく、国際的なエンジニアリング会社に脱皮するうえで重要な時期となった。
「南米3ジョブ」。日揮では今でもこう呼ばれるプロジェクトがある。その名の通り、南米の3つの大型案件で、ペルーのラ・パンピーヤ製油所建設、アルゼンチンのラ・プラタ製油所の近代化、ベネズエラのモロン製油所拡張である。偶然だが、揃って受注した。
エンジニアリングの国際商戦は、技術力や値段だけで勝敗が決まるものではない。顧客の納期や見積もりの内容への評価、企業国籍に関わる国際情勢も大きな要素となる。「南米3ジョブ」はまさにタイミングと政治情勢が日揮に大きく味方した。当時の中南米はキューバ革命の影響もあって、反米や社会主義への共鳴が拡がっていた。一方で米国は「黄金の50年代、60年代」であり、石油、石油化学のプラントが次々に建設されていた。つまり、南米市場には強敵である米系エンジニアリング会社の空白が生じていた。日揮はその機会を逃さず掴んだのだった。
4.円高で赤字、海外調達へ
1985年9月22日。多くの日本企業にとって、一夜にして世界が変わった。先進5か国蔵相・中央銀行総裁会議が円高誘導で合意した「プラザ合意」である。それまで日揮をはじめ日本のエンジニアリング会社は、設計はもちろん反応塔やタービン、コンプレッサーなどプラントの主要部分、さらには鉄骨や配管など細かな部材まで日本製で対応していた。1ドルが250円~260円の水準ならこれで十分に競争力があった。だが、プラザ合意後の円高は驚くべきスピードで進んだ。87年の年明けには140円台まで上昇した。
私たちが受注する仕事は、総コストのうち、部材や機器の調達すなわち、「購買」が50%、現地での「建設」が40%を占め、設計や管理など「エンジニアリング」が10%と言われる。まず、購買と建設を日本から海外に切り替えなければ、勝てない状況だった。そこで海外から人材を集め、部材の調達など海外調達エンジニアリングを80%まで高めた。
5.グローバル化はリスク共存
ビジネスの舞台はグローバルに広がっており、各国の人材を採用してプロジェクトに取り組んでいるとリスクと隣り合わせとなる。2013年1月には日揮のプラントでアルジェリア人質事件が発生し、イスラム武装勢力による銃撃で人質23名が死亡した。うち日本人10名、他は外国従業員であった。今の中東情勢を考えると、今後もこのリスクは増え続けることだろう。