久保田豊 くぼた ゆたか

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掲載時肩書日本工営社長
掲載期間1966/07/01〜1966/07/29
出身地熊本県一宮
生年月日1890/04/27
掲載回数29 回
執筆時年齢76 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他五高
入社内務省
配偶者また従妹(意中の人)
主な仕事茂木商店、久保田事務所、朝鮮水電㈱、赴戦江・長津江・鴨緑江ダム、日窒海南工業、鉄鉱山発見、日本工営
恩師・恩人横田定雄、小橋一太、野口遵
人脈茂木惣兵衛、細川護立侯、森田一雄、小林中、松永翁、河合良成、河上弘一
備考あだ名:メコン将軍、南北屋
論評

1890年4月27日 – 1986年9月9日)は熊本県生まれ。実業家。日窒コンツェルンの野口遵と共に、当時世界最大級の水豊ダムをはじめ、朝鮮北部に大規模なダムを建設した。戦後は建設コンサルタント会社日本工営社長を務めた。日窒コンツェルンの長津江水電、朝鮮送電の取締役を経て、朝鮮電業社長に就任。当時世界的な生産規模を有していた朝鮮窒素肥料興南工場などへ電力を供給する体制を整えた。また世界でも最大級のダムである鴨緑江の水豊ダムの建設を実現した。戦後、ビルマ(現ミャンマー)のバルーチャン発電計画を受注し、これは結果的にODAの原点となる戦後賠償の第1号案件につながった。その後、ベトナムのダニムダム、ラオスのナムグムダム、インドネシア・韓国・南米・アフリカ諸国の電源開発・農業水利のコンサルタントとして日本の技術輸出の新しい分野を開拓した。

1.細川護立侯爵のご好意
大正元年(1912)東大に入学したが、旧藩主細川侯が熊本県出身の子弟のために提供された有斐学舎で楽しい学生生活を送った。卒業後、内務省に入り実績をあげると、強い推薦もあり独立したが直ぐには仕事はなかった。私の一生を振り返って、一番苦しかったのはこのときだった。この難所を切り抜けられたのは、何といっても細川侯爵のお蔭である。
 私に仕事がないというので、わざわざ仕事を作ってくれた。建築屋でもない私を屋敷に呼んで「屋敷を測量しろ」「牛込に屋敷を買ったから家をつくれ」と命じてくれた。私も「建築はできません」と引っ込むわけにも行かないので、ありがたくお引き受けしたが、材料費は前払いで払ってくれるし、肥後銀行との取引も取り計らってくれたので銀行の信用も生まれるし、全くうれしかった。

2.恩師・野口遵氏との縁
大正13年(1924)、私の恩人である小橋一太さんの選挙運動を選挙事務長格として応援することになった。まず私は資金調達から始めなければならなかった。当時、野口遵さんは「日本窒素」を設立して、隆々たる勢いであった。そこで小橋さんに私の紹介状を書いてもらって、早速熊本に行き野口さんを訪ねた。
 「小橋さんが清浦内閣の中心となって動いていることは、ご承知の通りです。ついては、熊本県から政友会本党公認の5人を全員、当選させたい。私は土木技師ではありますが、頼まれてこの仕事を引き受けております。一つ選挙資金を出してもらえないでしょうか」「いったい、どれくらい必要ですか」「一人一万ずついるでしょうから5万円下さい」。今の金に換算すれば、ざっと5千万円、考えてみれば乱暴な話だ。野口さんはじっと私の顔を見ていた。鋭い目つきである。「承知しました」。
 私は二つ返事で引き受けた野口さんという人物から、強烈な印象を植え付けられた。その結果、選挙では見事5人全員が当選したのである。この野口さんとのご縁が私の大仕事に繋がっていったのである。

3.鴨緑江水電の開発
昭和11年(1936)の夏、当時、朝鮮総督であった宇垣一成さんが長津湖のほとりにある別荘に家族づれでやってきた。かねて野口さんから「総督が来たら・・」と言い含められたことがあり、またとない機会が来た。
 私は一夜、別荘に宇垣さんを訪ねた。都合のいいことに、元関東軍の参謀長で朝鮮軍司令官をしておられた小磯国昭大将もお見えになっていた。私はお二人に同席されている部屋で、かねて用意の話を、地図を広げながら切り出した。「総督、一つ鴨緑江に関心を持っていただけませんか。実は今、こういう新しい発電計画を立てております。野口と私の考えとしましては、ここは国境ですから、朝鮮と満州国、両方が協力してこれを行う形にしたらいいと思います。資金も電力も、全て半々にするのです」と。
 宇垣さんは、すぐさま「それはいい考えだ。総督府に“私が承知した”と言いたまえ。満州国も“宇垣は承知だ”と伝えなさい」。同席の小磯さんも、大いに賛成してくれた。
 ちょうどそのとき、私には関東軍から満州に来て別案件を見てくれとの話が届いていたので、すぐさま、私は「総督同意」という切り札を持って、満州国の関東軍のもとに出かけた。その仕事も終わってある夜、板垣関東軍参謀長が私のために宴席を設けてくれた。いよいよ私の待っていたときが来たのである。
 「参謀長、実は、宇垣朝鮮総督も同意された話です。鴨緑江を満州国と朝鮮、両者で開発したらいかがでしょうか。鴨緑江には、数か所で二百万キロワットの出力が求められる地点があります。この計画について、野口が言うには、資金その他もし必要ならば、一切の責任、面倒はこちらが持つ、そして電力は満州国と朝鮮で二分、もし満州国側の需要開発が遅れて、消化できない場合その電力はこちらが引き取る、これは権利として主張するのではなく義務として引き受けよう・・・と言っております」と話した。これで了承を受けたが、満州国の星野直樹財務部長、岸信介実業部次長、椎名悦三郎鉱工司長などの承認も受けた。
 鴨緑江は白頭山から発して西流、全長790kmの大河である。これを堰き止めて、まず第一期に70万キロワット、完成時には200万キロワットの発電量を可能にしようという大工事である。当時、米国ではTVAやグランドクーリーの開発計画が行われ、”世紀の大工事“と言われていたが、私たちが行おうとしている鴨緑江工事も、決してこれに負けない大規模なものであった。しかも野口さん一人で手を挙げたのは特筆だ。
 こうして「鴨緑江水電」は昭和16年(1941)8月26日、堰ていの大部分を完成、貯水を開始、水豊発電所第一号機(10万キロワット)が動き始めた。残念ながら野口さんは病床にあったので、私が社長代理としてこの晴れがましい竣工式に臨んだ。「ガァッ」と動き出す、あの音は何度聞いても素晴らしいものである。

久保田 豊(くぼた ゆたか、1890年4月27日 - 1986年9月9日)は、日本実業家位階正三位日窒コンツェルン野口遵と共に、当時世界最大級の水豊ダムをはじめ、朝鮮北部に大規模なダムを建設した[1]。戦後は建設コンサルタント会社日本工営社長を務めた[1]

  1. ^ a b 世界最大のダム建設、久保田豊が途上国のインフラ開発に一生を捧げたワケ(ビジネス+IT)”. Yahoo!ニュース. 2019年9月11日閲覧。
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