掲載時肩書 | キャノン会長 |
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掲載期間 | 1993/03/01〜1993/03/31 |
出身地 | 愛知県 |
生年月日 | 1926/05/19 |
掲載回数 | 31 回 |
執筆時年齢 | 66 歳 |
最終学歴 | 九州大学 |
学歴その他 | 五高 |
入社 | キャノン 28歳 |
配偶者 | 親戚娘見合い |
主な仕事 | 上海、青島、行商、代用教員、経理、複写機>多角化、HP/TIと提携、海外進出(生産)、企業進化論 |
恩師・恩人 | 御手洗毅社長(叔母の親戚) |
人脈 | 松井友正、山路敬三(後任)、御手洗肇(毅息子・現社長)、石原俊 |
備考 | 父・東亜同文書院舎監・マージャン連盟の創始者 |
1926年(大正15年)5月19日 – 2001年(平成13年)6月23日)は、日本の経営者・実業家。キヤノン元社長・会長・名誉会長。グローバル企業構想を打ち出し、技術力の強化や海外進出による国際化を推進すると共に、カメラ中心の光学メーカーだったキヤノンカメラを改革、複写機などの事務機やプリンターなどの情報機器メーカーに脱皮させ、キヤノングループをグローバル企業に育て上げた。キヤノンカメラを大手情報機器メーカーに成長させるなど「キヤノン中興の祖」と呼ばれている。
1.御手洗毅社長を入社面接で怒らす
昭和29年〈1954〉、私は28歳で九州大学を卒業し、キャノン面接となった。当時のキャノンはまだ規模も小さく、面接には御手洗社長を中心に、幹部が立ち会った。いくつかやりとりがあった後、「趣味は?」と聞かれたのに「マージャン」と答えた途端、御手洗社長の機嫌が悪くなった。社長はマージャンが大嫌いだった。
「賭博をやるような者はいかん」「マージャンは賭博ではない。老いも若きも楽しめる家族団らんの遊びです。父はマージャン連盟の創始者ですが、賭けマージャンは一切認めていません」。ウッと詰まった社長は「夜更かしするからいかん」。「私の家では夜の8時から10時と決めている。夜更かしなどしていません」。
私もムッとして「例えば囲碁などは親の死に目にも会えないというが、マージャンは・・・」とやった。囲碁好きの社長はカンカンになって、怒鳴りつける。それに対し、「私はまだキャノンの社員ではない。対等の関係のあなたに怒鳴られる覚えはサラサラない」と言い返し、散々な面接になった。
あれだけ怒らせてはダメだろうと、中津に戻った私に、どういう訳か後日、合格通知が送られてきた。入社後聞いた話では、面接の評価に社長は大きくバツ印を書き、残りの重役は全員二重丸をつけて、多数決で合格が決まったのだという。
2.多角化(合言葉:右手にカメラ、左手に事務機)
昭和37年(1962)企画調査課長になった私は長期経営計画の策定に携わることになった。昭和35年、池田内閣の発表した所得倍増計画に刺激されて、産業界では長期経営計画ブームの感があった。
当時、キャノンの売上構成の95%がカメラだったが、カメラだけに頼っていてはフイルムメーカーの強い影響を受けざるを得ず、経営を多角化しなければ対抗できない。そこでカメラで培ってきた光学技術や精密機械技術、シンクロリーダー開発で手にした電子技術を武器に、主として事務機分野への展開を図り、5年後にカメラ以外の商品構成を20%に上げることを目標とした。
ここで多角化の第一弾として、伊藤宏部長(後に常務)が中心となり開発したのが、世界初のテンキー式電卓で、この「キャノーラ130」を39年5月に発売した。「右手にカメラ、左手に事務機」を合言葉に、多角化路線はその後も活発に展開された。半導体焼付装置、光ファイバー、無散瞳眼底カメラなど、光学特機の分野でも次々に新製品を開発した。
3.米国でパテント登録数がNO.1に
昭和52年(1977)5月末に前田武男社長が急逝したため、51歳の私が社長を引き継ぐこととなった。社長になった以上、私の為すべきことは決まっていた。まず、企業理念の確立であり、具体的には技術戦略と海外戦略であった。キャノンが企業として力をつけるためには、まず技術開発力を高めなければならない。そのためには私は研究開発費について、それまで売り上げの4~5%だったのを、利益が減ってもいいからと、思い切って10%にアップした。同時に研究開発部門の人材を補強して、強化育成を図り、広範な研究テーマへの取り組みを促進した。
その結果、米国でのパテント登録数は昭和62年(1987)に第1位になった。二位が日立、三位が東芝であり、それ以前の25年間にわたりずっとトップだったGEを、日本の三社が一気に追い抜いたのである。