掲載時肩書 | 建築家 |
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掲載期間 | 2017/06/01〜2017/06/30 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1937/10/17 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 79 歳 |
最終学歴 | 慶應大学 |
学歴その他 | 米国ハーバード大学デザイン科 |
入社 | 東大大学院 |
配偶者 | KG45卒 |
主な仕事 | 土門拳記念、葛西臨海水族園、猪熊、東山、慶應義塾、法隆寺宝物館、NY近代美術館、鈴木大拙、京都国立博物館、銀座SIX,ホテルオークラ、 |
恩師・恩人 | 丹下健三教授 |
人脈 | 清家清、磯崎新、槇文彦、イサムノグチ、猪熊弦一郎、三宅一生、 |
備考 | 祖父、父も建築家 |
1937年10月17日 – )は東京生まれ。日本の建築家。学位はMaster of Architecture(ハーバード大学・1964年)。一級建築士、丹下健三都市・建築研究所での勤務を経て、計画・設計工房を設立し、谷口吉郎建築設計研究所所長、谷口建築設計研究所所長などを歴任した。氏は、この「履歴書」に登場した建築家、谷口吉郎、丹下健三、磯崎新、安藤忠雄に次いで5人目である。それも父親の吉郎と親子での登場である。 父親は、43年前の1974年2月に70歳で登場し、慶應幼稚舎、ホテルオークラ、東京国立博物館東洋館などを手掛け、猪熊弦一郎、イサムノグチ、丹下健三などとの親交が息子・吉生に大きなプラスになっていた。
1.卒業制作で奨学金
私がハーバード建築科(GSD)に入学した1960年、都市デザイン学科が創設された。建築も都市を構成する要素としてとらえる考え方が世界的に主流となりつつあり、丹下健三氏が東京湾上の都市計画案「東京計画1960」を発表。住宅の設計においても居間は「客室に集う広場」、廊下は「客室をつなぐ道」に例えられて教えられた。私のハーバード(GSD)の卒業制作も、こうした教育の影響を多分に受けていた。
高層住宅における上下層の環境違いに注目し、層ごとに用途を変える提案である。地面と近い低層部は、住居の内部と周辺の緑の環境を連続させ、子供がすぐ外に遊びに出られるようになっている。高層部は眺望の良さを生かしたプライバシーの高い住居。中層は広い廊下やテラスを横に通して、住人同士の交流を促す。人が自由に行き来し、出会いを生む若者向けの居住部分である。この卒業制作が高く評価され高額の奨学金をもらった。
2.土門拳記念館
父の事務所を継いだ「谷口建築設計研究所」に、写真家の三木淳氏が訪ねて来られたのは1980年代初めだったと思う。土門氏は病で倒れ、昏睡状態にある。設計を誰に頼むか思案する中で「谷口という建築家がいい」と師匠が口にしていたことを思い出したという。
場所は最上川の川岸にある飯森山公園。もとは水田だったところを整備し、人工池が造成されることになっていた。私の設計はいつも敷地に何度も足を運び、周囲を歩き回ることから始まる。敷地には蓄積された歴史の痕跡や自然があり、それらが建築を発想するためのヒントを与えてくれる。そして敷地という背景に建築を加えることで、その場所にふさわしい新しい風景をいかに作るかを考える。記念館の手前には池が深々と水をたたえ、背後には飯森山、天気の良い日には鳥海山までが見渡せることだろう。そんな情景が自然と目に浮かんだ。そして記念館は明るい人工池に浮いているかのように設計した。
暗い展示室から出て目に入るのは、彫刻家のイサム・ノグチ氏と共に計画した「水の庭」。階段状の石のスロープを水が流れ、「土門さん」と名付けたノグチさんの彫刻が立つ。もう一つの庭は華道家、映画監督、舞台美術家など様々な顔を持つ勅使河原宏氏に依頼した。またグラフィックデザイナーの亀倉雄策氏にも参加していただき、土門氏と親交の深かった芸術家の参加を仰ぐことで、彼らの友情の記憶をとどめた。
3.慶応義塾の建築
東京の天現寺にある「慶応義塾幼稚舎本館」の建築は1937年、私と同じ年に生まれた。今年、丁度80歳。この現代的な校舎が戦前にできたと聞いて驚く人は多い。設計者は30代の若き建築家だった父、吉郎。
私が50歳の時、竣工50周年事業として幼稚舎から体育館の設計依頼があり、初めて慶応義塾の施設に携わった。私は父が設計した既存の建築とどう関連づけるかに迷った。本館、自尊館、記念棟の3つは時代によって作風が異なっていたからだ。考えた末、私の作品と共通点が多い本館を選び、水平に延びる白い校舎と連続するように体育館を設計した。法律の制限から高さを低く抑える必要があったため、アーチ型の梁を取り入れ、床を地上より下に沈めて体育館に必要な大空間ができた。床と地上との間にできた段差部分は、先生がプレー中の友人を楽しく応援したりするバルコニーとして活用するのだ。
建築はこのように、その空間にいる人間の行動や精神にさえ働きかける力を持っていると思う。
氏は2024年12月16日、87歳で亡くなった。この「履歴書」に登場は’17年6月で79歳のときでした。
1.建築にデザインも重視
氏は慶應工学部(機械工学科)を卒業し、ハーバードの建築科(GSD)に行き、帰国して東大の大学院に入り丹下健三教授の指導を受けた最高の建築学を学んでいる。ハーバードは建築のデザインを重視した。日本では建築学科の多くが工学部に組み込まれ、地震や災害への対応で強い建物や町を築くことが「国策」だった。しかし、ここは建築デザインの専門家を育てることが目的だ。構造や設備、歴史の授業もデザインを支えるものとして、模型などを使い視覚的に理解させる方法だった。例えば、「学校」の設計課題なら、学校はどうあるべきかという考え方や教育方針を小論文にまとめる。最後に出来上がる図面や模型は造形の出来不出来に加えて、その思想性との一貫性で評価されたという。この教育は、デザイン、プレゼンテーション、審査を繰り返して実務を学ぶのだった。
2.建築基本は模型を通して建築を考える
土門拳記念館、慶應義塾の建物は父親が関与したこともあり、イサムノグチの協力も得て完成させる。その建築にはイサム氏の「彫刻家は彫刻そのものを作っているのではない。彫刻を置くことで【場所】を【空間】へと変える」思想を取り入れている。また、葛西臨海水族園、法隆寺宝物館、NY近代美術館、京都国立博物館「平成知新館」、ホテルオークラ、GINZA SIXなどの建築設計もすべてその建物の歴史、携わった人の思い、自然環境、社会環境との調和を考え、丁寧に完成までの思索を説明してくれている。氏の基本は模型を通して建築を考える。模型作りは3次元のスケッチのようなもので、作っては壊し、また作ることで立体的な建築への思考が研ぎ澄まされるという。建築は工学と美学の結晶であり、大勢の人とともに作り上げる芸術であるという考えは説得力のある記述でした。
日本経済新聞の「評伝」2024/12/21付では下記ように紹介されていた。
驚きに満ちた端正な空間
数多くの優れたミュージアム建築を世に送り出したことで知られる。名前を聞けば「ああ、あの建物」と多くの人が思い起こすにちがいない。
豊田市美術館(愛知県)、丸亀市猪熊弦一郎現代美術館(香川県)、米ニューヨーク近代美術館(MoMA)の増改築プロジェクト。京都国立博物館平成知新館など日本を代表する博物館も手掛けた。仏教学者・鈴木大拙の「無」の思想をミニマルな空間に表現した金沢市の鈴木大拙館は、国内外からの訪問者が絶えることのない人気スポットになった。
端正でありながら「体験」の驚きに満ちた空間が持ち味だった。シンプルな展示室をめぐるたび、移り変わる外の景色が目を楽しませる。水の使い方も秀逸で、人工池と遠景の東京湾をつないで見せた葛西臨海水族園(東京都)は代表例だ。
長いキャリアの割に寡作なのは、一つの建物に全精力を注いだから。設計のすべてのプロセスに直接かかわるスタイルを貫いた。ドイツの石切り場で思い通りの色の石を選別し、石の吸湿率まで調べ上げてから建築に用いる完璧主義者でもある。人との競争を好まず、コンペ(設計競技)とも長らく無縁。周囲に説得されて応募したMoMAは唯一の例外だった。「建築家としての誇りと(妥協のない)もの作りの姿勢は父に学んだ」と生前、話してくれたことがある。敬愛する父、吉郎氏の教えを受け継ぎ、人柄そのままに品格ある建築を各地に残した。(編集委員 窪田直子)
谷口吉生 | |
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文化功労者顕彰に際して 公表された肖像写真 | |
生誕 | 谷口 吉生(たにぐち よしお) 1937年10月17日 日本 東京府 |
死没 | 2024年12月16日(87歳没) |
国籍 | 日本 |
出身校 | 慶應義塾高等学校卒業 慶應義塾大学工学部卒業 ハーバード大学デザイン大学院修了 |
職業 | 建築家 |
親 | 谷口吉郎(父) |
受賞 | 日本建築学会賞作品賞 (1984年・2001年) 吉田五十八賞 (1984年) 村野藤吾賞 (1994年) 高松宮殿下記念世界文化賞 建築部門 (2005年) |
所属 | (丹下健三都市・建築研究所→) (計画・設計工房→) (谷口吉郎建築設計研究所→) 谷口建築設計研究所 |
建築物 | 丸亀市猪熊弦一郎現代美術館 丸亀市立図書館 東京国立博物館 法隆寺宝物館 ニューヨーク近代美術館新館 |
谷口 吉生(たにぐち よしお、1937年10月17日[1] - 2024年12月16日)は、日本の建築家。
父は建築家の谷口吉郎。洗練されたモダニズム建築を手掛け、「美術館建築の名手」と呼ばれた[2]。ニューヨーク近代美術館を除き、これまでほとんどコンペ(建築設計競技)には応募しておらず、また日本国外での作例も少ない。[要出典]自身の建築について多くを語らず、作品を見せることを優先する「作品主義」の一面があった[2]。
丹下健三都市・建築研究所での勤務を経て、計画・設計工房を高宮眞介と開設し、谷口吉郎建築設計研究所所長、谷口建築設計研究所所長などを歴任した。資生堂アートハウスの設計で1984年 日本建築学会賞、土門拳記念館(1983年)の設計で1984年 吉田五十八賞、東京都葛西臨海水族園(1989年)の設計で1990年 毎日芸術賞を受賞するなど受賞多数。
ハーバード大学などで学び、学位はMaster of Architecture(1964年)。一級建築士、日本芸術院会員、文化功労者。勲等は旭日中綬章。