掲載時肩書 | 映画監督 |
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掲載期間 | 1964/04/13〜1964/05/11 |
出身地 | 三重県 |
生年月日 | 1896/01/01 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 68 歳 |
最終学歴 | 中学校 |
学歴その他 | |
入社 | 19歳旅回り一座 |
配偶者 | 記載なし |
主な仕事 | 旅芸人(女形)、日活、映画俳優、シナリオ、監督、欧州視察、米国、 トーキー>カラー「地獄門」カンヌ映画賞 |
恩師・恩人 | 白井信一郎 |
人脈 | 藤田芳美、井上正夫、夢声、牧野省三(子:雅弘) 坂東妻三郎、林長二郎(長谷川一夫)、 |
備考 | 娯楽映画 巨匠 |
1896年1月1日 – 1982年2月26日)は三重県生まれ。俳優、映画監督、脚本家。女形俳優から転身した映画監督で、新派劇団を経て日活向島撮影所で女形スターとして活躍後、牧野省三の下で映画監督となった。新感覚派の作家と組んで前衛映画『狂つた一頁』を製作後、松竹・東宝・大映で長谷川一夫とコンビを組んで多くの時代劇映画を製作した。江戸や明治の情緒を新派劇の素養であでやかに描き出すことにかけては第一人者だった。
1.日活入社
旅回り一座でいろいろ世話になったが、大正6年(1917)12月中旬、日活入社が決まった。日活向島撮影所は東京府下南葛飾にあった。墨田川に面し、二千三百坪の広大な庭園の中に、二百八十坪とかのグラス・ステージと現像場、それに付随して事務所。~楽屋、衣装、床山べやは母屋の建物をそのまま使用していた。離れが二棟ほどあり、そこは専属の脚本家の仕事場だった。
私の役は、洋装、鳥追い、芸者、令嬢風の女賊だった。ストーリーはよく覚えていないが、颯爽たる(?)洋装姿が評判になったらしい。矢継ぎ早に「犠牲」「女気質」「雪枝夫人」などと、撮影続行。当時の仕事ぶりは、例の離れで脚本家が4,5日で1本書き上げる。それを内読みと称して、監督と幹部俳優5,6人が集まって聞く。めいめいがそれぞれ意見を出し合って、その翌日が一般本読み。次の日が衣装調べにカツラ合わせ。そして、ロケ3日のセット2日で完成という早業だった。
もちろん、ロケもグラス・ステージも昼間しか撮影はできない。ライトを使っての撮影など思いもよらないころのこと。けいこもなければ、リハーサルもない。各自が勝手に動きを考えて芝居をする。その代わり、セリフを覚える必要はない。何と気楽な、無責任な稼業であるものと、舞台から来た私は密かに思った。
2.とび職の銃後の守り
昭和22年(1947)には、池之端の湯島両門町に新居を構えていた。建設中に見つけた二階建てで、引越したときはまだ壁が乾いていなかった。家の前にはとび職の頭が住んでいた。じいさん、ばあさんはもう隠居していたが、むすこはやはりとび職で火消しだった。
ジャン、ジャンと鳴ると、すっ飛んで帰って来て、火事装束に替え、神棚のサカキの葉を一枚、口にくわえると飛び出していった。すると母親のばあさんがすぐ玄関にゴザを敷き、油紙と晒し木綿、それにハサミを一丁添える。
私が不思議そうに見ていると、これはね、むすこがずぶ濡れで、怪我でもして帰って来たら、とても、股引なんて脱がせやしません。そのとき、このハサミがいるんですよ。―――何といったらよいか、昔気質のりりしさ、みごとさとでも言うべきか、真に私は頭の下がる思いがした。
3.精神病院を見学 (映画「狂った一頁」の構想に役立つ)
私も30歳、自由に、思いのままの映画を一本作ってみたくなった。ある小品の構想を膨らませるため、松沢病院に出かけ、精神病院患者の病室を見学させてもらうことにした。隔離された男女の病棟には、施療、重患、畑で働いている患者もあるかと思えば、水風呂に入っているのもある。一糸まとわない女をおれば、個室で封筒を貼っている男もいる。誇大妄想狂の葦原将軍にも会った。「今般都合により、支那国司法大臣に命ず、葦原将軍、誰氏名」とした辞令ももらった。
一人としてまともな人間のいない脳病院。私はその晩、これらの狂った人たちの、一人一人を考えてみた。横光利一氏も、川端康成氏も、脳病院の話はおもしろいという。シナリオは川端氏が手伝ってくれることになった。井上正夫氏も興味を持たれ、無料出演の約束をしてくれた。
きぬがさ ていのすけ 衣笠 貞之助 | |||||||||||||||
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本名 | 小亀 貞之助(こかめ ていのすけ) | ||||||||||||||
別名義 | 藤沢 守 小井上 春之輔 泉 治郎吉(筆名) | ||||||||||||||
生年月日 | 1896年1月1日 | ||||||||||||||
没年月日 | 1982年2月26日(86歳没) | ||||||||||||||
出生地 | 日本・三重県亀山町大字東町(現在の亀山市本町) | ||||||||||||||
死没地 | 日本・京都府京都市右京区 | ||||||||||||||
職業 | 俳優、映画監督、脚本家 | ||||||||||||||
ジャンル | 映画、新派劇 | ||||||||||||||
活動期間 | 1918年 - 1966年 | ||||||||||||||
活動内容 | 1917年:日活向島撮影所に入社 1920年:監督デビュー 1938年:松竹から東宝へ移籍 1950年:大映専属 | ||||||||||||||
配偶者 | 千早晶子(女優) | ||||||||||||||
著名な家族 | 弟:衣笠十四三(映画監督) | ||||||||||||||
主な作品 | |||||||||||||||
『狂つた一頁』 / 『地獄門』 | |||||||||||||||
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衣笠 貞之助(きぬがさ ていのすけ、1896年1月1日 - 1982年2月26日)は、日本の俳優、映画監督、脚本家。本名:小亀 貞之助(こかめ ていのすけ)。
新派劇団を経て日活向島撮影所で女形スターとして活躍後、牧野省三の下で映画監督へ転身した。新感覚派の作家と組んで前衛映画『狂つた一頁』を製作後、松竹・東宝・大映で長谷川一夫とコンビを組んで多くの時代劇映画を製作した。江戸や明治の情緒を新派劇の素養であでやかに描き出すことにかけては第一人者だった[1]。1953年(昭和28年)公開の『地獄門』は、第7回カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞。上記以外の主な作品に『十字路』『雪之丞変化』など。妻は女優の千早晶子、弟は映画監督の衣笠十四三。