行天豊雄 ぎょうてん とよお

行政・司法

掲載時肩書国際通貨研究所理事長
掲載期間2006/10/01〜2006/10/31
出身地神奈川県
生年月日1931/01/02
掲載回数30 回
執筆時年齢75 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他一高、早稲田大学
入社大蔵
配偶者日米会話学院娘(板橋並治先生媒酌)
主な仕事主税局、フルブライト留学、プリンストン大、IMF,アジア開銀、国金局長、プラザ合意、財務官、OECD第3部会議長、東銀会長
恩師・恩人柏木祐介
人脈早坂茂三(早大)、本間長世、芳賀徹、高階秀爾、ボルガー&バーンズFRB議長、細見卓、佐上武弘、吉野良彦次官、小和田恒(同期)、緒方貞子
備考戦後通貨史記述、父ゴルフHC0
論評

1931年1月2日 – )は神奈川県生まれ。大蔵官僚、財務官。入省翌年の1956年(昭和31年)9月からは、アメリカ合衆国のプリンストン大学大学院社会経済学部に留学した。2年後に留学から帰国すると、為替局に務めた。1984年(昭和59年)には国際金融局長に就任し、翌年のプラザ合意に立会い、日本を代表する「通貨マフィア」として知られるようになった。さらに翌年6月から1989年(平成元年)7月までは財務官を務め、ルーブル合意にも関与した。また、行天は同年、早稲田大学の同級生で、当時野村證券副社長だった寺澤芳男を、同年に発足した多国間投資保証機関 (MIGA) の初代長官として推薦している。

1.ニクソン・ショック(金・ドル交換停止)
昭和46年(1971)8月15日(日本時間で16日朝)、ニクソン大統領が金・ドル交換停止を発表した。16日夜開いた大蔵省内の緊急幹部会議は、「東京外国為替市場は閉鎖せず」と決めた。柏木雄介さんの鶴の一声だった。鳩山威一郎次官は「閉鎖して様子を見たらどうか」と首を傾げつつも、議論して勝てる自信はない。「そこまでいうなら」と折れたのだろう。同期だった鳩山さんと柏木さんの関係は微妙だった。
 柏木さんには「東京市場を閉めないことで、米国を助けている」という意識があったようだ。米国は大幅なドル体制の変更は考えていない、との判断が柏木さんにはあったのではないか。結果としてみれば、ドル切り下げを狙ったニクソン政権の意図を読み違えていたことになる。事務方には日本の為替管理は鉄壁だという自信もあった。だが大蔵省の役人もしょせん素人だ。考えも及ばなかった抜け道が沢山あって、そこを通じて大量のドルが日本に流れ込み、ドル売りの嵐になった。

2.五か国(5G)蔵相会議のいきさつ
昭和48年(1973)9月にケニアのナイロビで国際通貨基金(IMF)総会が開かれた。愛知揆一蔵相が出席し、国際金融局課長だった私もお供した。その年の春、米国のシュルツ財務長官はホワイトハウスの図書館に、仏独英の三か国の蔵相を招き非公式の会合を持った。これを伝え聞いた愛知さんは決意した。
「いかん。日本もグループに入るようにしなければ」と。ニクソン・ショックやスミソニアン会議の際もそうだったが、対決しているはずの米欧の間で意思疎通ができている。いつの間にか舞台裏で流れが決まっていた経験をしているからだ。ナイロビにこれらのメンバーが集まる。そこに目を付けた愛知さんは、ケニア駐在大使公邸での夕食に米仏独英の蔵相を招待した。米のシュルツ、仏のジスカールデスタン、西独のシュミット、英国のバーバーの各蔵相である。
全く秘密裏にG5蔵相による非公式の会食ということになった。天ぷらを振る舞い、升酒でもてなした。愛知さんは食後に蔵相たちだけが残るように頼み、G5の蔵相で色々な話をした。・・「次は11月の終わりごろ、フランスでまた集まろう。その際は蔵相に次官または財務官を加えよう」。かくてG5蔵相会議が発足した。5大国の仲間入りだ。タイミングをうまくとらえ、通貨外交の舵を切ったのは愛知さんの功績である。

3.プラザ合意(1985年9月、ニューヨークプラザホテルで開催)
プラザホテルでの五力国(G5)蔵相・中央銀行総裁会議には、日本から竹下登蔵相、澄田智日銀総裁、大場智満財務官が出席した。国際金融局長だった私は米欧の10人くらいの仲間たちと隣の部屋にいた。
プラザ会議後、日米欧が大規模なドル売りの協調介入に踏み切った。プラザ会議の参加者の多くはドルの潜在的強さを予想していたが、ポルカー米連邦準備理事会(FRB)議長はドル暴落を心配していた。ボルカーの懸念が的中し、プラザ会議直前に1ドル=242円だったドルは翌1986年(昭和61)初には200円を割り込んだ。原油価格が急落しインフレのリスクが少なくなったため、ベーカー米財務長官はドル安を容認した。彼は日本から内需拡大策を引き出すには円高カードを切るのが有効と考えたのである。円が180円を突破するころから円高症候群に襲われた。輸出採算の悪化する産業界が政治家に陳情し、メディアも大騒ぎとなった。「三月決算期末は170円台を死守して欲しい」。こんな指示を中曽根康弘首相から直接受けたこともあった。
86年5月には東京で主要国首脳会議(サミット)が開かれ、日本は円高に歯止めをかけることを米国に求めたが、無駄だった。大蔵省は円売り・ドル買いの介入を続けたが、日本単独では効果が出るはずもなく、市場という砂漠に水を撒くような気持ちだった。5月には170円台、6月には160円台、7月には150円台と、円高は天井知らずだった。7月には衆参ダブル選挙があった。中曽根さんは「選挙前には170円台に戻して欲しい」と言ったが、市場の流れに逆らう介入の効果は乏しかった。

ぎょうてん とよお
行天 豊雄
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生誕 (1931-01-02) 1931年1月2日(91歳)
日本の旗 日本 神奈川県
出身校東京大学経済学部経済学科
職業大蔵官僚経済学者

行天 豊雄(ぎょうてん とよお、1931年1月2日 - )は、日本大蔵官僚財務官

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