掲載時肩書 | 演出家 |
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掲載期間 | 2012/04/01〜2012/04/30 |
出身地 | 埼玉県 |
生年月日 | 1935/10/15 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 77 歳 |
最終学歴 | 高等学校 |
学歴その他 | 開成高 |
入社 | 青年俳優クラブ(青俳) |
配偶者 | 女優 真山知子 |
主な仕事 | 舞台、映画、演出、現代人劇場、櫻社、シエークスピア、ギリシャ劇、王女メディア、NINAGAWAマクベス、芸術監督 |
恩師・恩人 | 木村功、岡田英二(仲人) |
人脈 | 西村晃、倉橋健、阿部公房、蟹江敬三、唐十郎、清水邦夫、石橋蓮司、若山富三郎、松本幸四郎、平幹二郎、栗原小巻、 |
備考 | (短気、モノを投げる)バカヤローは口癖 |
1935年(昭和10年)10月15日 – 2016年(平成28年)5月12日)は埼玉県生まれ。演出家、映画監督、俳優。桐朋学園大学短期大学部芸術科教授、彩の国シェイクスピア・シリーズ芸術監督、Bunkamuraシアターコクーン芸術監督、桐朋学園大学短期大学部学長(第6代)、桐朋学園芸術短期大学学長(初代)、桐朋学園芸術短期大学芸術科特任教授などを歴任した。現代日本を代表する演出家の1人として海外でも評価が高く「世界のニナガワ」、「蜷川先生」とも呼ばれた。
1.自意識過剰の人生
ぼくは生まれつき自意識過剰で、ことあるごとに恥ずかしいという気持ちに襲われる。小学生の頃から変わらないのは、遅刻しないこと。遅れて教室に入ると皆が振り返る。その恥ずかしさを絶対経験したくないという思いがもとになって、大人になっても遅刻はしない。
演出家になる前は俳優をしていたが、この過剰な自意識が演技に災いした。自意識を飼いならせないから、うまく演じきれない。演出家になってしばらくして、今は亡き太地喜和子さんさんが言った。「テレビの水戸黄門に出ていたの見たわよ。お願いだから、俳優やめてちょうだい」。高校で落第し、東京芸大に落ちて画家をあきらめ、俳優になってもヘタクソだった。職業として社会的に認められていたとは言い難い演出家になってからは、胃痛に苦しんだ。
ラーメンが嫌いになり、新宿が疎ましくなったのも、胸を締め付けられる演劇の思い出と結びついたからだ。回復には時間がかかった。演出の発想はいつも危地から生まれ出た。本当は避けたいのに、自己を危険にさらす。あえて自分を引き裂かれる目にあわせたい。傷だらけのぼくの人生はその繰り返しだった。
2.「バカヤロー」は親しみの口癖
戦争が終わった1945年、埼玉県の川口は空襲に遭わなかったから、戦前の鋳物工場が温存された。戦後は街全体が沸き立つようだった。朝鮮特需から高度成長時代にかけては、ぼくが少年から青年に成長していく時代に当たる。吉永小百合さんが主演した1962年の映画「キューポラのある街」(浦山桐郎監督)を見た人なら、その活気をわかってくれるだろう。
キューポラとはコークスを燃やして鉄を溶かす溶鉱炉のことだ。「吹きどこ」と呼ばれた炉で鉄をドロドロに溶かす。何千度になるのか、まるで地球の腹の中をのぞいているようだった。火山から流れ出す溶岩みたいに赤オレンジの光を放ちながら、煮立っている。それを「湯」といった。
絶対に目をつぶるな、と皆いい合っていた。何かの混合物が入ると、パーッと跳ねる。目をつぶった最後、飛んできた「湯」で瞼が焼け、くっ付いてしまう恐れがある。夏場は皆塩を舐め、汗だくで働いていた。
一瞬の油断が命取りになりかねない。この街では「ぼやぼやしていると危ないですよ」が「気をつけろ、バカヤロー」になるのだった。後に演出家になったぼくは、稽古場で「バカヤロー」を連発し、灰皿や時には椅子を投げた。すると、口が悪いとか、怖いと思われたようだ。それは「おい元気か、バカヤロー」が挨拶になる川口っ子にとっては普通の言葉。照れくささと親しみがこもった表現なのだ。
3.主夫で子連れ演出家
1971年秋に現代人劇場が解散し収入がなくなったとき、子供を欲しがっていた妻の女優・真山知子は1冊の預金通帳を差し出した。夫婦でネパールへ行く資金として貯めていた100万円だった。「しばらく働かなくて大丈夫。ネパールにするか、子供をつくるか選んで」と迫られた。
翌年生まれたのが、写真家になる長女の美花だ。赤ちゃんの世話に熱中する真山にぼくは言った。「君は女として駄目になる。育児はぼくがやるから仕事をすれば」と。78年に次女の麻実が生まれ、育児役を真山と交代するまで、ぼくは優秀な主夫だった。朝起きてバギーに実花を乗せ、荒川の土手で遊ばせる。洗濯し、それを取り込み、実花をお風呂に入れる。買い物をして夕飯の支度をし、洗い物をする。
台本を読んだり、資料を調べたりする時間は夜の10時以降になる。商業演劇の初演出となる「ロミオとジュリエット」の上演を控えていたころ、遂に過労でダウンする。診断書は「育児疲れ」だった。稽古場や会議室にも実花を連れて行った。打ち合わせ中に「おむつ換えなきゃ」「離乳食の時間だ」と何度も席を外すものだから、舞台美術の朝倉摂さんによく叱られた。子連れ狼ならぬ、子連れ演出家だ。実花はロビーでよく遊び、監事室で芝居を見て育った子だ。
氏は’16年5月12日に80歳で亡くなった。この「履歴書」に登場したのは2012年4月で77歳の時であった。この「履歴書」に登場した映画監督、舞台監督、演出家、脚本家は衣笠貞之助、木下恵介、市川崑、山田洋次、今村昌平、篠田正浩、新藤兼人、蜷川幸雄と倉本聰の9人である。
氏は開成高校卒業後、劇団青俳に入り、俳優となった。1968年、現代人劇場を結成し、翌年演出家でデビューした。74年には東宝の商業演劇に進出。美空ひばりや森進一の演歌、ロック音楽などを取り入れ、強烈な視覚効果で観客を酔わせる舞台で成功を収めた。その後、珍しかった日本語演劇の海外公演を重ね、87年にロンドンのナショナル・シアターで「NINAGAWAマクベス」が絶賛されるなど、国際的にも評価を確立した。
高校で落第、画家を志して東京芸大受験も失敗、俳優を目指しても目が出ない。太地喜和子から「テレビの水戸黄門に出ていたのを見たわよ。お願いだから、俳優をやめてちょうだい」と言われ、俳優をやめ演出家になる。挫折と孤立をかみしめ、独学で映画を研究し読書に耽った。世に受け入れない怒りを力に変え、前例のないアイデアを生み出した。桜吹雪、大階段、緋毛氈の絨毯、石の雨、赤い月などであり、「ぼくの演出する舞台は開幕からの3分を大切にする。懸命に働いた人たちが夢を見ようと足を運ぶところが劇場だ。幕が開いたとたん眠気に襲われる芝居であってはならない。そう戒めている」と書いている。
にながわ ゆきお 蜷川 幸雄 | |||||
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生年月日 | 1935年10月15日 | ||||
没年月日 | 2016年5月12日(80歳没) | ||||
出生地 | 日本・埼玉県川口市本町 | ||||
死没地 | 日本・東京都 | ||||
血液型 | A型[1] | ||||
職業 | 演出家、映画監督、俳優 | ||||
ジャンル | 舞台、映画、テレビドラマ | ||||
活動期間 | 1955年 - 2016年 | ||||
活動内容 | #略歴参照 | ||||
配偶者 | 蜷川宏子(真山知子) | ||||
著名な家族 | 蜷川実花(長女) | ||||
公式サイト | ニナガワカンパニー | ||||
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蜷川 幸雄(にながわ ゆきお、1935年(昭和10年)10月15日 - 2016年(平成28年)5月12日)は、日本の演出家、映画監督、俳優。位階は従三位。勲等は文化勲章。桐朋学園芸術短期大学名誉教授、文化功労者。
桐朋学園大学短期大学部芸術科教授、彩の国シェイクスピア・シリーズ芸術監督、Bunkamuraシアターコクーン芸術監督、桐朋学園大学短期大学部学長(第6代)、桐朋学園芸術短期大学学長(初代)、桐朋学園芸術短期大学芸術科特任教授などを歴任した。