荷見安 はすみ やすし

行政・司法

掲載時肩書全国農協中央会会長
掲載期間1961/10/19〜1961/11/12
出身地茨城県
生年月日1891/11/11
掲載回数25 回
執筆時年齢70 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他一高
入社内務省
配偶者平凡結婚
主な仕事農商務省へ、米穀法、農村振興、家の光、米価算定率、日銀政策委、荷車の歌
恩師・恩人千石興太郎、石黒忠篤、
人脈飛田穂洲、柳田誠二郎、安井誠一郎、青木一男、石渡荘太郎、上野英三郎、安藤広太郎、有働良夫、宮嶋清次郎、江戸英雄
備考先祖:那須与一、水戸藩で剣術と水術の師範
論評

1891年(明治24年)4月6日 – 1964年(昭和39年)2月22日)は茨城県出身。農林官僚。内務省を経て農商務省に転じた。農務課長、米穀課長、米穀部長、初代米穀局長、馬政局長を経て1939年に農林次官。退官後は産業組合中央金庫理事長,初代全国農業協同組合中央会会長などを務めた。米騒動への対処、米穀法の立案、米穀取引所の廃止などに携わり、退官後は組合の側から食糧管理法改正問題に対処するなど、一貫して米穀政策に関与し続け、「米の神様」の異名をとった。

1.産業組合中央金庫(現・農林中央金庫)の発足
大正7年(1918)の米騒動から翌8年に始まる食糧増産計画、耕地整理法の改正、同9年には第一次大戦後のパニックで蚕糸救済などの問題が起こり、10年に入って、米穀法が生まれ、12年には、関東大震災があって東京が壊滅した。その年に、農林中央金庫の前身である産業組合中央金庫ができたのである。
 組合発足25周年大会では、その式典には農林大臣高橋是清氏、大蔵大臣浜口雄幸氏、内務大臣若槻礼次郎氏、逓信大臣犬飼毅氏などが顔を並べ、産業振興の必要を力説したものであった。

2.雑誌「家の光」発行の狙い
産業組合から、家庭雑誌発行の話が出た。組合精神を普及徹底させるためには、家庭との間に理屈抜きの繋がりが必要で、それにはまず婦人や子供たちに明るく上品な娯楽を与えながら、知らず知らずのうちに組合の精神を植え付けていこうという狙いであった。こうして誕生したのが雑誌「家の光」である。

3.農業政策相談会
昭和21年(1946)吉田茂氏が総理大臣になった。宮嶋清次郎氏は吉田さんと大学同期でとても親しい仲だったので、いろいろ仲介役をしていただき、大変お世話になりました。吉田総理から「農業政策について関係者と話し合いをしたいので、その機会をつくってくれ」と頼まれた。私は上司の石黒忠篤さんと相談して、月に1,2回、吉田さんを中心に農業問題や農業政策について語り合う「農業政策相談会」をつくった。
 その頃の農相は広川弘禅さんで、こちらは石黒さんと私が世話人になり、石川一郎、藤山愛一郎、湯川元威、東畑精一、溝口三郎君らが顔ぶれであった。この会は吉田さんが辞められるまで続いた。愛知用水の問題が取り上げられたのもこの会合であった。

4.有線放送の開始
昭和30年(1955)に農林省が新農山漁村建設計画というものを始め、各町村で自主的に建設計画を立てたものに補助金を出すことになった。そんな機運に乗じて急速に発達したのが有線放送である。
 これは、直接組合内の各農家に一時に情報を与えるのに便利で手っ取り早いということから考え付いたもので、農協の組合事務所から各組合員に線で結び付け通信する施設で、農林省では新農山漁村建設計画補助金として1年に総額4億円を出すことになった。

5.映画製作「荷車の歌」
昭和34年(1959)に組織を法人化して自分の手で農業技術や農村文化の向上に役立つ映画をつくりたい趣旨で、財団法人全国農村映画協会を設立した。映画製作の資金が足りないので、婦人部員が一人ずつ10円の拠出をお願いすると、結果2千7百万円の鐘が集まった。集まった金が予定より少なく,製作費も嵩んだが、私は約束通りその穴埋めをした。こうしてできたのが、望月優子さん主演の「荷車の歌」だった。
 映画製作の狙いが農村の経済を豊かにして、農民の生活文化を向上させるためのものであるから、今後とも支援を続けたいと思っている。

荷見安

荷見 安(はすみ やすし、1891年明治24年)4月6日[1] - 1964年(昭和39年)2月22日[1])は、日本の農林官僚農林次官茨城県出身。

  1. ^ a b 『日本近現代人物履歴事典』402頁。
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