掲載時肩書 | 作曲家 |
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掲載期間 | 2002/05/01〜2002/05/31 |
出身地 | 栃木県 |
生年月日 | 1932/06/12 |
掲載回数 | |
執筆時年齢 | 70 歳 |
最終学歴 | 東京音楽大学 |
学歴その他 | 県立今市高 |
入社 | キャバレー |
配偶者 | 歌手作詞家娘 |
主な仕事 | キング、「別れの一本杉」、コロンビア、 ムスタキ、演歌巡礼、刑務所慰問、 |
恩師 | 高野公男 |
人脈 | 三橋美智也、春日八郎、星野哲郎、村田 英雄、ひばり、北島三郎 |
備考 |
氏は’17年2月16日84歳で亡くなった。この「履歴書」に登場は2002年5月で69歳の時であった。作曲家としては、山田耕筰、古賀政男、服部良一、吉田正、団伊玖磨、船村徹、遠藤実、小椋佳だから8人の一人である。
氏は1932年栃木県生まれ。東洋音楽学校(現・東京音楽大学)ピアノ科卒。大学在学時に、作詞家の高野公男と組み作曲の活動を開始した。2歳年上の高野とともに、バンド・リーダーのほか、流しの歌手なども経験する。高野から「東京に出てきた人間はいつか故郷を思い出す。お前は栃木弁で作曲しろ。おれは茨城弁で詞を書く」と激励される。 1953年、雑誌「平凡」のコンクール曲に応募したところ、一等になり「たそがれのあの人」がレコード化され、作曲家としてデビューする。しかし、キングレコードから次の作曲依頼が来てレコーディングする際、彼の慢心から楽団員とトラブルを起こし、会社から出入り禁止措置となる。音楽の世に出る舞台を自ら閉ざしたため、仕方なく二人はピアノなど楽器を売り払い、「東京楽団」を結成し、バンドマンや歌手、役者を揃えて地方公演に行く。しかし、興行師に騙されたり、観客も不入りだったため、ギャラが払えず、やむなく解散。惨めな結末のとなった。
こんな失意の時代だったが、お互い「いつか地方の時代が来る」の夢を信じて苦難に耐えた。しばらくすると出入り禁止措置も解け、三橋美智也の「ご機嫌さんよ達者かね」を高野が作詞し、彼が作曲でレコード化された。これがヒットして二人の音楽界への道が開かれたのだった。二人の名前を不動のものにした本格的な作品は、1955年、春日八郎が歌った「別れの一本杉」で空前の大ヒットとなった。その後も、彼は亡くなった高野と約束の望郷の歌「男の友情」、「あの娘が泣いている波止場」、「柿の木坂の家」、「早く帰ってコ」など大ヒットを連発する。「王将」(歌・村田英雄)は戦後初のミリオンセラーを記録し、戦後歌謡界を代表する作曲家の一人となった。
船村の代表曲のひとつ『矢切の渡し』は元々ちあきなおみに提供した楽曲だったが、細川たかしが歌ったものがヒットし、第25回日本レコード大賞を受賞した。しかし、船村は細川盤のほうがヒットしたことに対して「大複雑」と発言し、「ちあきの歌は(楽曲のイメージの)手漕ぎの櫓で、細川の歌はモーター付の船だ。」という評価を下していたのが、私には大変印象に残っている。
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船村 徹 | |
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![]() 文化勲章受章に際して 公表された肖像写真船村徹 | |
基本情報 | |
出生名 | 福田 博郎(ふくだ ひろお) |
生誕 | 1932年6月12日 |
出身地 | ![]() |
死没 | 2017年2月16日(84歳没) |
学歴 | 東洋音楽学校卒業 |
ジャンル | 演歌・歌謡曲 |
職業 | 作曲家・歌手 |
活動期間 | 1955年 - 2017年 |
レーベル | キングレコード(1955年 - 1956年) コロムビアレコード(1956年 - 1978年) |
共同作業者 | 高野公男 |
船村 徹(ふなむら とおる、1932年〈昭和7年〉6月12日 - 2017年〈平成29年〉2月16日[1])は、日本の作曲家・歌手。日本音楽著作権協会(JASRAC)名誉会長、日本作曲家協会最高顧問。横綱審議委員会委員。本名は福田 博郎(ふくだ ひろお)。戦後歌謡界を代表する作曲家の一人であり、手掛けた曲は5000曲以上にのぼる。歌謡曲の作曲家として初めて文化勲章を受章した。