掲載時肩書 | ファナック会長 |
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掲載期間 | 2022/01/01〜2022/01/31 |
出身地 | 茨城県 |
生年月日 | 1948/07/23 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 73 歳 |
最終学歴 | 東京工業大学 |
学歴その他 | 新宿高校 |
入社 | いすゞ自動車 |
配偶者 | 東女大出教師 |
主な仕事 | 米国GMI留学30歳、いすず退社35歳、全電動射出成形機、富士山麓(本社・工場・研究所)、GE提携、2拠点化 |
恩師・恩人 | 中川威雄教授 |
人脈 | 尾身半左右、池田敏雄、稲葉憲之、野澤量一郎、小山成昭、山口賢治 |
備考 | 父:清右衛門の業績を顕彰する |
氏が富士通出身の「私の履歴書」登場者では和田恒輔氏(1971年9月)に次いで2番目である。しかし、父稲葉清右衛門氏が富士通から独立し、ファナックを創業。そしてNC(数値制御装置)を世界最高水準のFA化(工場自動化)し、ロボット、知能化機械のメーカーに育て上げた。その父の背中を見ながらファナックを創業二代で育てた歴史を語ってくれていたし、今まで語られなかった父親業績を顕彰する内容でもありました。
1.米国ゼネラル・モーターズ(GM)大学に留学
世界の自動車業界の頂点に君臨していたGMには直営の工科大学があった。略称はGMIで知られていた。現在のCEOであるメアリー・バーラさんをはじめ、歴代のGM首脳や幹部に卒業生が多い。GMIでまずバチェラー(学士)を、その後他の大学院でMBA(経営学修士)を取るのが往年のGMの出世コースだった。世界のGMの系列会社から留学生が送り込まれていた。いすゞ自動車も例外ではなく、78年に4人の留学生の一人に30歳の私が指名された。
期間は1年。1クールが6週間で、うち4週間が大学での講義、残り2週間がGMの工場での実習だった。入学すれば大半がエスカレーター式に卒業できる日本の大学と異なり、米国の大学は厳しく、さらにGMIのカリキュラムは工場実習もあったので卒業まで4年ではなく5年が通常のコースだった。
GMIの講義で印象に残っているのは2つ。アカウンティング(会計学)とプレゼンテーション(表現技法)である。米国のこの大学は、学士号を持つ我々留学生もこの2科目は必修で難物だった。アカウンティングはビジネススクールのように実際の企業のケーススタディが提示され、学生は議論を闘わせる。技術者であっても、経営の基礎である会計の素養は不可欠なのだと思い知らされた。
もう一つのプレゼンテーションはテーマを与えられ、自分で調べた内容を皆の前で発表するのだが、その様子をビデオで撮影し、それを発表終了後に再生しながら、教授が指導する。話者としての姿勢や目線、ポインターの使い方などを徹底的に叩き込まれた。米国では幼少期からプレゼン教育があるのがすごい。
2.世界初の全電動射出成形の開発
1984年1月から3月間、米シンシナティのミラクロン社に派遣されたファナックのプロジェクトチームは突貫作業で任務に取り組んだ。電動の射出成形機のノウハウがなかったため、従来の油圧式の構造から勉強する必要があった。この3月間で電動サーボによる基本設計は終わらせていたが、帰国後はこの新しい機構に必要な巨大サーボモーターと射出の圧力制御を行うソフト開発がこれからの課題だった。
それまでのサーボモーターは工作機械の位置決めや速度制御に使われていたが、射出機構にするならばトルク(回転力)を巨大化しなければならない。一方、射出成形の作業は0.1秒台の超高速の応答機能が必要。こんな矛盾する性能要求は、自動車に例えれば、大型トラックに必要な馬力とトルクを持ち、同時にスポーツカーにも搭載できる高レスポンスのエンジンを作りだせということに近い。
この二律背反を解決した立役者は希土類(レアアース)磁石の一つ、サマリウムコバルト磁石である。当時最強の磁石とされた耐食・耐熱性にも優れていた。この磁石をモーターにふんだんに使ったことが不可能を可能に変えた。そこで84年11月、世界初の全電動射出成形機オートショットの発表会が開催できた。
3.社長昇格とワンマン経営の終止符
2003年6月27日、副社長だった私はファナック5代目の社長に昇格した。翌月の誕生日で55歳になるタイミングで、日本の企業では早い方かもしれないが、世界標準では決して若くない。ただ、経営の主導権は依然として、この年78歳になった相談役名誉会長の父が握っていた。私の序列は名誉会長、会長となった小山成昭さんに次ぐ3番目。社長就任後もFA国内セールス統括本部長や研究所統括本部長を委嘱され、副社長時代以前とほとんど役回りは変わらなかった。
しかし10年後の2013年10月、期中ではあったが首脳人事を実施。現社長の山口賢治さんを含む3人の副社長に代表権を与え、私を含む4人の代表取締役が率いる新体制を確立した。創業以来のワンマン経営は漸くここで終止符を打った。