和田恒輔 わだ つねすけ

電機

掲載時肩書富士電機製造相談役
掲載期間1971/09/09〜1971/10/08
出身地山口県厚狭
生年月日1887/11/03
掲載回数30 回
執筆時年齢84 歳
最終学歴
神戸大学
学歴その他下関商業
入社古河鉱業
配偶者友人妹
主な仕事上海、インド、古河電気工業、富士通信機(富士通)パージなし、日米原子力産業合同会議
恩師・恩人(柴田信・堀富太郎・古林喜代太)先生、茂野吉之助、名取和作社長
人脈俵田明(宇部興産)水島 銕也校長、稲垣平太郎、出光佐三(小唄、高商同期)
備考ジーメンスと提携復活
論評

1887年11月3日 – 1979年12月2日)は山口県生まれ。実業家。古河鉱業入社後、1923年富士電機製造に転籍。富士電機製造(現在の富士電機)社長、富士通信機製造(現在の富士通)社長等を務めた。ジーメンスとの提携や、多角経営を進めた。1953年日本ポリドール取締役。

1.ジーメンスとの事業提携で富士電機製造が設立
大正10年(1921)、私は古河鉱業から古河電気工業へ移った。古河電工は大正9年春、古河鉱業日光電気精錬所および本所工場とを統合して設立したもので、私はいわば課長待遇といったところで電池や電話機、交換機の販売を担当した。そのうち、古河とジーメンスとの事業提携に関する契約が調印され、新会社の創立準備が必要となった。私は稲垣平太郎君と共に、その方へまわり、数次の折衝を重ねて調印した。
 新会社は大正12年8月23日、富士電機製造株式会社が誕生し、資本金は一千万円だった。(ちなみに新会社名の富士は、古河の「ふ」とジーメンスの「じ」をとって名付けられた)。社長は古河にも縁故があり、財界にも顔の広い名取和作氏が就任され、私は社長が兼務の営業部長の営業副部長となり、稲垣君は経理課長を命ぜられた。奇しくも9月1日、新会社の仕事はじめが、関東大震災の日であった。

2.古河とジーメンスとの縁
ジーメンスの日本への進出は、明治20年(1887)7月にヘルマン・ケスラー技師が同社の派遣員として渡米した時に始まる。ケスラー技師は、足尾銅山に行き、古河の創立者、古河市兵衛氏に会い、鉱山用電機設備の売り込みに成功した。その頃の足尾は、鉄道の便はなく10数里の山坂をカゴか馬に頼らねば寄り付けないようなへき地だった。そのような辺鄙な山奥まで単身で乗り込んだ勇気と熱心さには感服のほかない。古河氏もその意気に感じたか、たちまち肝胆相照らす仲になったという。こうしてみると、両社の間柄も、富士電機からの50年というより、その前の80余年といってよいかもしれない。
 大正12年(1923)の、ジーメンスとの提携初期の頃は、ジーメンス側の持株は32%(現在10%)、取締役うち、社長、専務は古河から、工場長はジ社から選任する決まりになっていた。また、派遣技師も何人かいたので、富士電機には、常にドイツ人重役ないし社員がおり、早創期には28人もいた。彼らのサラリーは日本人社員の10倍以上だったので、経費中人件費が最も多く、当時の経理は四苦八苦したこともある。

3.ジーメンスとの提携復活
終戦後は、富士電機のように米国に繋がりを持たぬ会社は、たいへん心細い思いをさせられた。そのうえ、当社の提携会社であるジーメンスは、日本と同じく戦争に敗れたドイツに在って、しかも主力工場がベルリンに集中していたため、その被害は甚大で、工場や研究所は爆弾による破損だけでなく、被災を免れた設備まで目ぼしいものはほとんどソ連に持ち去られたという噂まで届いて、我々は暗い気持ちにさせられた。従って、ジーメンスは果たして復興ができるのか、戦前のような輝かしい大ジーメンスを再現しうるか、大きな疑問を抱かざるを得なかった。特に米国の技術勢力の強かった通信機方面でその声が強かった。
 昭和24年(1949)3月頃、ようやく日独間の通信ができるようになり、ジーメンスへ書面を送り、戦後の処理、復興の現状、将来の見通しなどを訊ねた。これに対し折り返し詳細な回答があって、幾分安心した。しかし、書面だけでは、まだ心もとない点もあるので、25年8月、大富真常務をドイツに派遣した。同氏の帰朝報告によって我々は、ジーメンスが着々と元の姿に戻りつつあることを初めて知ったのである。
 その後いろいろ交渉を進めて、27年(1952)3月、取締役企画部長の前田七之進、渉外部長の根岸良介両君を帯同して私自身渡独しジーメンスとの契約に調印した次第である。ドイツの復興は、誠に目覚ましく、世界の驚異といわれるぐらいで、技術的水準も飛躍的に上昇し、現在では軍用特殊品以外は米国に比較し何らの遜色もなく、我々の見通しの誤っていなかったことを証明している。

和田 恒輔(わだ つねすけ、1887年11月3日 - 1979年12月2日)は、日本実業家山口県出身。富士電機製造(現在の富士電機)社長、富士通信機製造(現在の富士通)社長、日本原子力研究所顧問原子力委員会参与等を務めた。正四位勲二等瑞宝章ドイツ連邦共和国功労勲章大十字章、藍綬褒章受章。

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