掲載時肩書 | 元日本社会党委員長 |
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掲載期間 | 1998/09/01〜1998/09/30 |
出身地 | 台湾 |
生年月日 | 1924/10/06 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 74 歳 |
最終学歴 | 陸軍士官学校 |
学歴その他 | 台北高商 |
入社 | 進駐軍組合 |
配偶者 | 職場結婚 |
主な仕事 | 県議、衆議員、非武装中立論、党内抗争 、成田―石橋、小選挙区反対、 |
恩師 | |
人脈 | 大平正芳、福永健司、田中角栄、 |
備考 | 勲一等旭 日大綬章 |
氏が‘19年12月9日に95歳で亡くなった。この「履歴書」に登場は1998年9月74歳の時であった。社会党(民社党含む)からの登場者は、鈴木茂三郎、浅沼稲次郎、西尾末広、片山哲、河上丈太郎、江田三郎、三宅正一、春日一幸、佐々木更三、佐々木良作、勝間田清一、土井たか子、村山富市に次いで14番目であった。
氏は熊本県の陸軍士官学校を経て、終戦後、長崎佐世保市で米軍基地従業員として働いた。雇用不安のうわさから労働組合を結成して書記長に就任し、51年に社会党から同県議選に出馬し当選する。55年の衆議院選で、30歳の若さで初当選した。60年の「安保国会」では、後に社会党委員長となる飛鳥田一雄氏らとともに論陣を張り「安保5人男」と呼ばれた。党内では総務局長、国際局長、書記長、副委員長を歴任して、政策、財務、党務の3重要部署をこなし、理論家として自民党に対峙した。
氏は、妻や子にも特権意識を持たないように求め、百の説法よりも効果のある方法を実行した。それは住んでいたアパートは風呂がなく、社会党書記長時代の末期までの30年間、銭湯かよいを続けていたのだった。そして、敗戦直後から半世紀、仕事一途に生き、碁、将棋、玉突きなどは学生時代にやったきり。麻雀、ゴルフ、パチンコ、カラオケはすべて縁なしといった生活だったと書いている。村山富市氏も自身の清貧生活を書いていたが、清く、正しく、逞しく生きられたのだなぁと感心した。
石橋政嗣 いしばし まさし | |
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![]() 日本社会党中央本部機関紙局『月刊社会党』第127号(1967)より | |
生年月日 | 1924年10月6日 |
出生地 | ![]() (現・ ![]() |
没年月日 | 2019年12月9日(95歳没) |
死没地 | ![]() |
出身校 | 台北高等商業学校(現・![]() |
前職 | 佐世保地区労働組合会議議長 |
所属政党 | (日本社会党→) (左派社会党→) 日本社会党 |
称号 | 衆議院永年在職議員 |
選挙区 | 旧長崎2区 |
当選回数 | 12回 |
在任期間 | 1955年2月28日 - 1990年1月24日 |
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在任期間 | 1983年9月7日 - 1986年9月8日 |
石橋 政嗣(いしばし まさし、1924年10月6日 - 2019年12月9日)は、日本の政治家。全駐労出身。日本社会党書記長・副委員長・委員長を歴任した。台湾出身。