田淵節也 たぶち せつや

金融

掲載時肩書野村證券元会長
掲載期間2007/11/01〜2007/11/30
出身地韓国岡山県
生年月日1923/10/25
掲載回数29 回
執筆時年齢84 歳
最終学歴
京都大学
学歴その他松江高
入社野村證券
配偶者尾道社内結婚
主な仕事海軍魚雷艇、広島支店、時価発行、経団連銘柄担当、海外進出、高輪研修セ、笹川平和台団
恩師・恩人奥村、瀬 川、北裏、藤沢武夫
人脈宮澤喜一(選挙)、石井久、山本陽子、中曽根康弘、竹下登、井深大、盛田昭夫、本田宗一郎、伊藤雅俊、飯田亮、平岩外四
備考夫婦:お互い君、「大磯小磯」執筆
論評

1923年10月25日 – 2008年6月26日)は、野村證券(現・野村ホールディングス)の社長、会長を歴任した日本の実業家。精彩を欠いていた国際部門を飛躍的に伸ばし、世界有数の証券会社に押し上げた。後任の社長に就任した田淵義久(縁戚関係はない)と区別するため俗称は大田淵。「履歴書」では小気味よくズバズバと自己主張をされていた。

1.ノルマ証券
戦後、大阪から東京に出てきた野村は田舎者扱いで相手にされず、兜町は山一や日興の天下だった。昭和29年(1954)、僕は東京の本店営業部に異動になった。高度成長が始まる前だが、野村は既に「ノルマ証券」の異名をとっていた。瀬川美能留さん(元会長)の影響だろうが、「稼げない男は無価値な人間」という主義で「断固としてモノを売る」のが好きな人で、徹底していた。僕は「ノルマ証券」という言葉が嫌いだ。
 もっとも、無理やり働かされていると思うと癪に障るが、ノルマがなければハッピーかどうか。案外、「あの時はしんどかったな」と言って思い出すのが楽しみかも知れず、人間なんて何が幸福かわからない。

2.山一証券の救済目的の見方
昭和40年〈1965〉不況の頂点は田中角栄大蔵大臣が決断した日銀特融(無担保・無制限融資)だが、「山一救済よりも、日本興業銀行の救済が目的だった」という見方がある。
「運用預かり」制度があった当時、証券会社は顧客に利息を払って有価証券を預かっていた。野村もやっていたが、山一は運用預かりした有価証券を担保に銀行から金を借り、自分の商売に使っていたのが命取りになった。問題は興銀が発行する割引金融債(ワリコー)で、山一が潰れると運用預かりして担保に入っているワリコーに累が及び、興銀の信用問題に発展する恐れがあった。興銀は大蔵省、いや日本にとって一番大事な銀行だ。「興銀に傷が付くことは何としても避けなければならない」というのが日銀特融の本当の狙いだったと思う。

3.金融序列に抵抗
1970年代、岸信介元首相の時代にできた資本主義計画経済の金融は、「大蔵省が一番偉く、その代理人が日本興業銀行で、興銀の指図でお金を配分する都市銀行が床の間を背負って上座に座り、下座で頭を低くして控える証券会社がお金を融通して戴く」という世界だ。封建時代さながらの序列が厳然とあった。今では考えられないだろうが、町人の分際の証券会社が武士の銀行や事業会社に物申すなどあり得ない時代だった。癪に障る思いを何度したかわからない。
 企業金融の銀行支配が緩むのは1980年代以降だ。86年に三菱グループの総本山である三菱重工業の国内転換社債の主幹事を、野村が山一証券から奪ったのは象徴的な出来事だった。金融が義理人情でなく損得の世界になり、三菱も野村と付き合わざるを得なくなったのだろう。

4.先輩3社長の功績
僕が社長に就任した1978年は、戦後の世界秩序が目に見えて崩れ始めたころだ。野村の戦後の社長は明治生まれが3代続いた。
 初代の奥村綱雄さんは豪放磊落に見えて計算ずくの人だった。偉かったのは、財閥解体で野村の社名を守り、証券業に希望をもって東京に進出し、池田勇人首相や石坂泰三経団連会長と付き合っただけでなく、国際化にも着手、訳もわからず「電子計算機を買ってこい」といったことだろう。
 瀬川美能留さんは巨人ひいきで有名だが、川上哲治の努力の哲学が好きで、天才肌の長嶋茂雄は嫌いだった。ノルマで締め付けなければ大きくなれないと本気で思ったのだろう。がむしゃらに営業基盤を広げ内部留保を厚くし、野村を強く大きくした。
 一番偉かったのは北裏喜一郎さんだと思う。地味だが先をみえる人で、野村総合研究所を設立し情報化に金を惜しまなかった。北裏さんは私への引継ぎで一言「野村に流れている清冽な地下水を汚さないでくれ」とだけ言った。「座って走れ」などと禅問答のようなことを言う人だが、「山一は濁った地下水を飲んで潰れた」と言っていた。

5.マーケットを見る日米の違い
米国はメリルリンチやゴールドマン・サックスなどの証券会社のトップが財務長官になる国だ。「株屋ごときが」という日本で野村のトップが大蔵大臣になるなど考えられない。規制する側とされる側が入れ替われば、お互い市場を理解しているから実効性ある規制もでき、市場の規律も働くのだろうが、大蔵省は市場を知らず、証券会社はそれに従うのが日本だ。言い訳に聞こえるかもしれないが、それが現実だった。

6.バブル崩壊
「海の色が変わった」という株式相場の暴落を予言した僕の発言が一部で話題になったのは1989年と思う。発言の裏には実話がある。関東大震災の直前、房総半島に避暑に来ていた金持ちが、海水の色がいつもと違うのに気付いた。不吉な前兆と思って東京に戻り、大事なものを纏めて安全なところに避難して、被災を免れたという。
 90年の年初から株の暴落が始まり、土地も実勢価格は同時に暴落した。まず証券会社がやられたが、日本のバブルの本質は土地本位制の金融だったから、土地担保融資が焦げ付いた銀行の不良債権が本丸だった。証券会社が自分でリスクをとる時は逃げ道を作っておく。銀行は逃げられないから政府に頼らざるを得ず、合併に追い込まれた。
 野村は、銀行を真似て不動産融資をした傘下の野村ファイナンスの処理で痛手を負う。約7千億円にのぼった損失は野村の自己資本のほぼ半分に相当した。「半分もドブに捨てたと思うか、半分は残ったと思うか」だが、早く始末をつけて良かったと思う。

田淵 節也(たぶち せつや、1923年10月25日 - 2008年6月26日)は、野村証券(現・野村ホールディングス)の社長、会長を歴任した日本実業家。後任の社長に就任した田淵義久(縁戚関係はない)と区別するため俗称は大田淵。  

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