田中角栄 たなか かくえい

政治

掲載時肩書自民党幹事長・前蔵相
掲載期間1966/02/01〜1966/03/07
出身地新潟県
生年月日1918/05/04
掲載回数35 回
執筆時年齢48 歳
最終学歴
専門学校
学歴その他中央工学校
入社土木工事
配偶者花子 (下宿娘)
主な仕事懸賞小説5円、土方、設計士、理研化学、入隊、独立・土木会社、代議士(28歳)
恩師・恩人草間道之輔、大河内正敏
人脈井上保三郎、大塚満丈、入内島金一、中西正光、安西浩(東ガス)、塚田十一郎、大麻唯男
備考ドモリ、7人兄妹(男一人)、父:牛、鯉 、競走馬
論評

「私の履歴書」では、幼年期から青年期、戦後の再出発の日(昭和22年4月26日)の代議士(28歳)で当選したまでを書いているが、その間、高等小学校を卒業後は土木工事の現場で働き、その後、柏崎の県土木派遣所に勤めた。上京して、木場で働いたり、井上工業に住み込みで働きながら、製図などの実務経験を重ねる。その後、保険業界専門誌の記者や貿易商会の配送員といった様々な職に就いたが、その都度、親方や上司、職人の心の持ち方、人の接し方などを学んだことを一つひとつ丁寧に記述していた。この気付きや学びが、氏の人生指針となり官僚や政治家、財界人など多種多彩の人たちの人心収攬ができる糧となったように思えた。

1.母は優しいが怖い人
いつも優しい母が、かって見たことのないような厳しい顔で私を呼んだ。「チョッと来なさい」と物置きの陰に連れ出された。「何か悪いことをしましたネ」」「悪いことなんかしないよ」「もし悪いことをしていたら、お母さんはお前と一緒に鉄道の線路の上で死にます」。私には何のことやらわからない。よく聞いてみると、祖父の財布からお金をとらなかったかという話なのだ。私はとらない。しかし茶箪笥の上に50銭玉が2つあった。むき出しに出ていたから、誰が使ってもよいお金だと思った。だからミカンを一箱買って来て、近所の子供たちに振舞った。「財布からとったわけではないが、使ったのはたしかに私である」と答えたら母親は複雑な顔をしていた。祖父はニコニコ笑って、「お前ならいいよ」と言った。
 それにしても母はなんであんなに真剣な顔をしたのだろうか。今思えば、他家に嫁してきて、自分の産んだ長男が嘘をついたり、人のものをかすめたりするようなら、母として死ぬほかはないという気持ちだったのだろう。私はそのとき、おとなしく無口な母だが、やはり私にとって誰よりも怖い人だと思ったのである。

2.電話3番の女性
私の勤めていた役所電話は柏崎の1番であった。警察が2番で町役場が3番、4番が税務署であった。いつも3番からの電話は声のキレイな女の人からである。お互い声ばかりで名も知らない1番と3番は、そのうち、時間外の夕方でも「1番さん」「3番クン」と電話を交換するようになった。彼女は私より3つ年上であった。二人で上映中の「大学の唄」などを映画館に観に行ったこともある。私が講義録で勉強していたり、いつか東京へ出て勉強する希望のあることを知っていた彼女は「東京へ早く出られるよう神様に祈ってあげるわ」と励ましてくれたこともある。
 昭和9年(1934)3月27日午前9時、上京する私に柏崎駅には三,四十人も見送りに来てくれていたが、「電話3番クン」の見送りのないのが寂しかった。ところが鈍行列車が次の駅に着くとホームにポツンと一人「3番」の彼女が立っていた。人目に立つことを恐れて次の駅を選んだ彼女の賢さがよく理解できた。停車時間は30秒で、話す間もなく汽車は動き出した。私の振ったハンカチは彼女の手に残ったし、彼女から手渡された手紙には、「よく勉強ができますよう、お番神さまに参ります」と記してあった。
 それから満12年。昭和21年(1946)3月、戦後第1回の衆議院総選挙に立候補した私は、柏崎小学校の講堂で第一声をあげたその日、何百人かの聴衆の最前列で子供を両脇にした一人の母親に目を止めた。柔和で、そして落ち着き払ったその人は「3番」の彼女であった。私は深い感謝の気持ちで眺めるとともに、心から彼女一家の幸せを祈ったのである。私の気持ちが通じたのか、彼女も目礼をしたようだ。

3.大河内正敏先生
大河内先生には、ひょんなことからエレベーターで一緒になり、このご縁で可愛がって貰えるようになった。1935年当時の理研化学研究所には、所長の大河内先生の他、戦後同研究所の所長になった世界的科学者の仁科芳雄博士、農学博士で農芸化学の鈴木梅太郎先生、理学博士で鋼の本多光太郎先生、理学博で物理の長岡半太郎という“理研三太郎”の先生がいた。
 6階にある大河内先生の部屋、それは理研各社共通の会長室である。間仕切りの一つもない大部屋の右手の真ん中に、この会長室だけは全部素通しのガラスによって仕切られている。先生の部屋からは会社の全部が見えて、社員の誰もが先生の日常を全部観察できる開放的なものであった。

4.初夜の誓い
1942年3月3日、桃の節句の日に二人は一緒になった。戦争が苛烈を加えてきたころなので、派手な結婚式も披露宴もできず、二人がその事実を確かめ合うだけでよかった。ものもいわず、虫も殺さぬ顔の妻にその夜3つの誓いをさせられた。その一つは、出ていけと言わぬこと、その二は足げにしないこと、そしてその三は将来私が二重橋を渡る日があったら彼女を同伴すること、以上である。私はこの三つの誓いを守って、今年で25年目を迎える。今考えてみると、その時から彼女の方が私より一枚上手だったようだ。

田中たなか角栄かくえい
田中 角榮󠄁
内閣広報室より公表された肖像
生年月日 1918年5月4日
出生地 日本における郵船商船規則の旗 日本 新潟県刈羽郡二田村
(現:柏崎市
没年月日 (1993-12-16) 1993年12月16日(75歳没)
死没地 日本の旗 日本 東京都新宿区信濃町慶應義塾大学病院[1]
出身校 二田尋常高等小学校卒業
中央工学校夜間部土木科卒業
研数学館放校
正則英語学校放校
錦城商業学校商業科4年制(商事実務「コーポレート・ファイナンス」)修了
前職 田中土建工業社長
越後交通代表取締役社長・会長
中央工学校校長
所属政党日本進歩党→)
日本民主党→)
(無所属/同志クラブ→)
(無所属/民主クラブ→)
民主自由党→)
自由党→)
自由民主党→)
無所属田中派
称号 陸軍上等兵
西山町名誉町民
一級建築士
配偶者 田中はな
子女 長男:田中正法
長女:田中眞紀子
二男:田中京
三男:田中祐
親族 田中角次(父)
田中直紀(入婿)
山科薫(甥)
田中雄一郎(孫)
サイン

日本の旗 第64-65代 内閣総理大臣
内閣 第1次田中角栄内閣
第2次田中角栄内閣
第2次田中角栄第1次改造内閣
第2次田中角栄第2次改造内閣
在任期間 1972年7月7日 - 1974年12月9日
天皇 昭和天皇

内閣 第3次佐藤改造内閣
在任期間 1971年7月5日 - 1972年7月7日

日本の旗 第67-69代 大蔵大臣
内閣 第2次池田第2次改造内閣
第2次池田第3次改造内閣
第3次池田内閣
第3次池田改造内閣
第1次佐藤内閣
在任期間 1962年7月18日 - 1965年6月3日

日本の旗 第12代 郵政大臣
内閣 第1次岸改造内閣
在任期間 1957年7月10日 - 1958年6月12日

選挙区 旧新潟3区
当選回数 16回
在任期間 1947年4月25日 - 1990年1月24日

その他の職歴
第6代 自由民主党総裁
1972年7月5日 - 1974年12月9日
第11・13代 自由民主党幹事長
総裁:佐藤栄作
(1965年6月 - 1966年12月
1968年11月 - 1971年6月)
第9代 自由民主党政務調査会長
総裁:池田勇人
1961年 - 1962年)
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田中 角栄(たなか かくえい[注釈 1]旧字体田中 角榮1918年大正7年〉5月4日 - 1993年平成5年〉12月16日)は、日本政治家実業家建築士。号は越山[2]

衆議院議員(16期)、郵政大臣第12代)、大蔵大臣(第676869代)、通商産業大臣第31代)、自由民主党総裁(第6代)、内閣総理大臣(第6465代)を歴任した。

自民党内最大派閥の田中派を率い、日本列島改造論を計画・実行し、他にも様々な政策を成し遂げたことでも有名であり、今太閤影の総理など呼ばれ多大な影響力をもった政治家として知られる。

  1. ^ 史上初の大調査 著名人100人が最後に頼った病院 あなたの病院選びは間違っていませんか”. 現代ビジネス (2011年8月17日). 2020年1月15日閲覧。
  2. ^ 人事興信録30版た32


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