掲載時肩書 | 帝国ホテル社長 |
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掲載期間 | 1960/11/21〜1960/12/11 |
出身地 | 石川県能美 |
生年月日 | 1887/06/08 |
掲載回数 | 21 回 |
執筆時年齢 | 73 歳 |
最終学歴 | 一橋大学 |
学歴その他 | 東商予 |
入社 | ヤマトホテル(満州) (満鉄) |
配偶者 | 見合(御茶ノ水大娘) |
主な仕事 | 鉄道ホテル満州>(英国)>仏>米>帝国ホテル、(改築披露日・関東震災)、新大阪、川奈、志賀高原、赤倉ホテル等 |
恩師・恩人 | 上田貞次郎、小林愛作、ウッズ米国大使 |
人脈 | 菅礼之助(1年先輩)、緒方竹虎(同級)、岡松参太郎、大倉喜八郎、星一、関一 |
備考 | 欧米一流ホテル修業10年 |
1887年〈明治20年〉6月8日 – 1981年〈昭和56年〉4月9日)は石川県生まれ。実業家。元帝国ホテル社長。元日本ホテル協会会長。元東京モノレール社長。1945年9月8日にダグラス・マッカーサーが連合国軍最高司令官として東京に着任した際には、焼け野原となった東京を視察する彼の運転手をした。これは全く予定になかったことで、冷や汗でびっしょりだったと、息子の一郎に語っている。帝国ホテル支配人当時の1957年、旅先のデンマークでスモーガスボード料理スタイルに出会い、内容的に「これはいける」と確信し、当時パリのリッツ・ホテルで研修中であった村上信夫に研究させた。それらのヒントによって考案された供食スタイルが「バイキング」である。ホテル経営を積極的に改革した結果、帝国だけでなく日本のホテル業界を一流に引き上げた功労者である。
1.恥辱(ホテルマンは母校の名を汚す)
満州のヤマト・ホテルの3年間に、私はボーイ、コック、金庫係、スチュワードなどの仕事を経験した。大正2年(1913)に国際都市・上海にわたり一流のバリトン・ホテルにコックとして雇われた。ここでも日夜勤勉に勤めホテル実務を身につけていった。だが「好事魔多し」。ところが突如、めんどうが持ち上がった。
上海には東京高商出身の人々が多数活躍していた。横浜正金銀行支店長児玉健次氏(後に頭取)、三井物産支店長藤瀬政次郎氏(後に常務)ら文字通り多士済々であったが、これらの先輩が私に一つの決議を申し入れてきたのである。「君が現在従っている仕事は、わが光輝ある一橋の名を汚すものである。一つの理想を抱いてコック修業をしているというならば、それを我々同窓生の面前で具体的に説明されたい」というのである。しかし私は断固これを拒否した。同窓の先輩の心からなる忠告とわかっていただけに、私の立場は苦しいものであったが、私はただ黙々として自分の仕事に励んだ。そして1年を経過するうちに、コックの仕事にも練達し技量にも自信を有するようになっていた。
2.異国で痛感したことと気づき
大正3年(1914)7月には上海からロンドンまで、私は送ってくれる人とてなくただ一人、40日間、船旅を続けた。そして鉄道ホテルに就職し、窓ガラス拭きから始めた。しかし、支配人は私の精励恪勤を認めたらしく、やがて私をフロア・ポーターに転じさせてくれた。私はもらうチップは全額これを貯蓄した。単身異郷で生活するにはいざという時たよりになるのは金銭のみであることが、私にはよく分かっていた。世間には宵越しの金は使わぬと言って自慢する人がいる。この考えは、裏返しすれば、独立心なく依頼心のみ多いことだ。私は青年時代外国に流寓して金銭の尊さを身をもって知った。時は金なりというが、同時にまた、金は時なりと私は声を大にして叫びたい。
またロンドンではクリスマス当日に、日ごろの精励の報酬という意味で、休暇を与えられた。同僚たちは口を揃えて羨望の言葉を放った。しかしその日になると、商店は全て戸を閉ざし、映画館や芝居小屋も休業だった。人々はこの日教会で祈祷を捧げた後、親類知人が集まって楽しい団欒を過ごすのである。私はすることがなく終日、汚い宿屋の一室でパンをかじりながら天井を凝視しているほかなかった。その時の蒼然たる孤独感は今も私の記憶に深く刻まれている。その時、私は自ら悟るところがあった。
「自分はこれまでただ自分のためにのみ働いてきた。そのためにロンドンに一人の知己もなく、わびしいクリスマスを味わなければならなかったのだ。今後は可能な範囲で人のためにも働こう」と。
3.帝国ホテルでの仕事
第一次世界大戦が終結した翌・大正8年(1919)1月13日、前後10年にわたる流浪海外生活に終止符を打って帰国した。ときに30歳であった。私は直ちに副支配人に命ずる旨の辞令を社長大倉喜八郎氏より交付され、大正8年1月20日から出勤した。最初の仕事は料理場の設計だった。新館はドイツ人技師のライト氏の設計で着工されていたが、料理場だけが空白のまま残されていたのである。普通料理場の設計は、まず手順よく料理を出すことが考えられるが、私は逆に、食堂から汚れたサラを能率的に下げる方を念頭にした。その結果、左側通行を旨とするよう設計した。これは古くからの日本の習慣に従ったものである。そして完成した料理場は、ほとんど自分の構想通りだった。だから自分には十分満足がいった。