牛場信彦 うしば のぶひこ

行政・司法

掲載時肩書外務省顧問
掲載期間1983/11/08〜1983/12/06
出身地兵庫県
生年月日1909/11/16
掲載回数29 回
執筆時年齢74 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他一高
入社外務省
配偶者兄嫁の妹
主な仕事独、英、極東裁判の弁護人、通商局長、外務省復帰、外務次官、駐米大使、沖縄返還、経済相、賢人会議
恩師奥村勝蔵
人脈兄知人(木内信胤、白洲次郎)、ライシャワー、佐藤、田中、福田、大平、中曽根首相、後藤田
備考兄:近衛首相秘書
論評

外務省に入省したが、戦後人員削減となり、立場上浪人となる。しかし、通産省に入省し、通商局長などを経験したのち、外務省に戻り、経済局長、駐カナダ大使、外務審議官、外務次官などを経て昭和45年7月から約3年間駐米大使を務めた。駐米大使時代には沖縄返還、日米繊維交渉などの難題と取り組む一方、“空飛ぶ大使”の異名をとりながら全米50州のほとんどを講演旅行して日米間の相互理解促進に尽力。その後、外務省顧問をしたあと52年11月、福田内閣の対外経済担当相に就任、米欧との経済摩擦緩和に東奔西走するなど、経済外交に大きな役割を果たした。59年には日米諮問委員会(賢人会議)の日本側委員長として、日米関係の順調な発展を目ざす報告書を出した。

非核三原則の解釈(事務次官時の内幕)
 核兵器を「作らず、持たず、持ち込まず」のうち、問題になったのは「持ち込まず」の解釈で、当初は通過や寄港までいけないとはいっていなかった。僕らから言えば、「料理屋に酒を持ち込むというのは、持ってきた酒をそこで飲むことであって、ただ持って行って、そのまま持ち帰るのは、持ち込むのではない」といった論理を展開していた。この論理を三木外相が国会答弁で発言され、佐藤総理も同調される形となった。米国にしても表立って「核兵器を積んだ船の通過を認めろ」とは言いにくい。そんなことを主張したら、日本側から核兵器の有無を知らせろと言われてしまい、戦略上まずいことになる。核の持ち込み解釈には、こうした日米双方の事情があった。

ニクソン大統領訪中発表(駐米大使時代の内幕)
 沖縄返還と繊維交渉に没頭している最中の1971年7月15日、ニクソン大統領が中国訪問を発表した。中国の問題が動いていることなどとは全然気がつかなかった。その日、午後10時ごろ、ロジャーズ国務長官から自宅に電話がかかってきた。キッシンジャーが7月9日から11日まで北京に行って周恩来と話した結果、ニクソン大統領が72年5月以前に中国を訪問することになったと。まったくびっくりした。すぐさま東京に電話を入れ安川外務審議官にとりあえずの情勢を伝えたが、10時半にニクソンから全米テレビで放送された。

ドル・ショック(金交換停止)・・(駐米大使時代の内幕)
 ニクソン訪中の発表からちょうど1か月後、こんどは新経済政策の発表、いわゆるドル・ショックが襲った。8月15日、それも日曜日、ニクソン大統領が午後9時からテレビで演説した。各国大使には国務省から連絡があり、午後10時から国務省会議室でボルカー財務次官の説明を受けた。米国の国際収支が悪化していたから、輸入課徴金の実施についてはある程度、情報を得ていた。しかし、ゴールド・オフ、つまり金とドルとの交換停止は予期しなかったことで、非常に驚いた。
 ニクソンのドル防衛発表後、欧州の主要国は為替市場を一斉に閉鎖したが、日本だけは市場を開き続けた。その後の対応を探る目的で大蔵省の柏木雄介顧問がやってきた。柏木君は、「円切り上げは絶対にできない」と言い張った。僕は内心、円の切り上げは必要と思っていたので、若干論議になったのを覚えている(この為替国際会議の内幕を柏木雄介氏が「私の履歴書」で語ってくれており、HPに掲載)。

牛場 信彦(うしば のぶひこ、1909年11月16日 - 1984年12月31日)は、日本外交官対外経済担当大臣福田赳夫改造内閣)。世界和平連合会発足当時の理事。

祖父は牛場卓蔵。兄に近衛文麿の秘書官を務めた牛場友彦がいる。弟は慶應義塾大学医学部教授で、国家公安委員会委員を務めた牛場大蔵

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