瀬川美能留 せがわ みのる

金融

掲載時肩書野村証券会長
掲載期間1970/04/22〜1970/05/20
出身地奈良県吉野
生年月日1906/03/31
掲載回数29 回
執筆時年齢64 歳
最終学歴
大阪市立大学
学歴その他成器商業高
入社加島銀行
配偶者池田首相夫人と同期、後再婚
主な仕事野村證券、s12.株式課、s26投信、東京支店長、本社ビル、野村総合研究所
恩師・恩人高山定太郎、奥村綱雄
人脈上林貞次郎・西村伊一(高商同期)土屋陽三郎・五島慶太、佐藤喜一郎、藤井丙午、北裏喜一郎
備考父:校長、無名会(川上哲治後援:木川田一隆・中山素平・湊守篤・勝田龍夫)
論評

1906年3月31日 – 1991年9月10日)は奈良県生まれ。実業家。野村證券元社長・会長。1959年に社長就任した後、1965年には調査部を独立させて、野村総合研究所を設立した。右翼の政商児玉誉士夫に莫大な資金を送り込んでいたことでも知られる。1968年からは会長を務め、1978年に取締役相談役に退いた後も、1986年12月には最高顧問となった。その他、社外では日本証券業協会連合会会長を務める傍ら、瀬川学術振興基金を設立し、その融資を大阪市に寄付し、大阪市立大学証券研究センターをバックアップさせた。その他には大和ハウス工業監査役、毎日放送取締役も務めた。

1.戦後の新体制
野村合名会社も持株会社に指定され、昭和22年(1947)には野村證券が公職追放令A項の追放指定を受け、飯田社長以下4人の役員が追放されることになった。野村としては、それが実行される前に、機構改革を行い、支配人制度を設けて、奥村、雨森、私がそれぞれ京都、大阪、東京の支配人になり、独立採算制による非常時体制をとっていた。さいわい業績も順調で飯田社長以下4人の役員が辞任する時には、3千万円あった特損を5百万円にまで減らし、業務の引継ぎはスムーズにいったのである。
 さて、4役員辞任後は、社長空席とし、取締役就任年次順に、奥村専務、雨森、平山常務、柴田、辻岡、関口、それに私が取締役に就任して新陣容を立てた。そうして、翌23年4月、奥村専務が社長、私は常務につき、資本金も5千万円に増資したのである。

2.投資信託の再開
昭和24年(1949)も半ばすぎると、いよいよ投資信託が研究され始めた。しかし、投信再開については、その前に戦前の投信の処理問題があった。野村証券の投信についていえば、損失補償条項があり、損失が出た場合その20%を会社が補償しなければならない。組み入れ銘柄は満鉄をはじめ外地に会った会社や封鎖機関指定会社の株式や国債が多く、敗戦で大打撃を受けた。したがって元本500円に対し平均238円という状態であった。社内では戦時のこととて、これは企業責任を越えたことだから、補償条項は破棄しても構わないという意見が強かった。松本烝治博士の見解もそのようなものであった。
 しかし、私は民間企業としては取引先との契約は絶対に破ってはいけないという考えでいた。投信は単に一時的な株式供給過剰対策の手段ではなく、ピープルズキャピタリズムの担い手として将来の証券界運命を左右するものであるから、投信復興のために補償すべきであると強く主張した。
 その結果、私の意見が通り、2割の補償を覚悟して、運用を始めた。さいわいにも、株式市況の好況で、昭和24年10月には損失なしで償還を完了した。ありがたいことであった。

3.野村総合研究所の創立
昭和40年(1965)3月31日、資本金5億円で「株式会社野村総合研究所」が創立され、私が社長に、元防衛庁の防衛研修所長・佐伯喜一氏が副社長兼所長に就任した。この研究所の設立趣旨は、創造性と総合性と実益性のある科学的研究調査活動を通じ、野村證券の事業に対する頭脳的貢献から出発し、さらに広い立場からわが国、ひいては世界の産業と経済の発展に寄与することを目的として掲げ、一証券会社の調査活動の域にとどまらず、それをはるかに越える国際的調査活動をするわが国唯一の総合的受託研究機関として、そのために野村証券の全額出資による株式会社として発足したのである。
 もちろんこれには下地があり、昭和26年に私が米国に視察旅行をした際、SRI(スタンフォード研究所)を紹介され関係を深めていた。昭和36年秋、北裏喜一郎副社長を団長とする調査機関使節団を欧米に派遣し、SRIとの提携をさらに深め、カステン・ステファン博士を「野村総合研究所」の最高顧問に迎えて、大きな援助をしてもらったのだった。

人生のヒント
健康法 朝風呂

瀬川 美能留(せがわ みのる、1906年3月31日 - 1991年9月10日)は日本の実業家野村證券元社長・会長[1]

  1. ^ 20世紀日本人名事典『瀬川 美能留』 - コトバンク
[ 前のページに戻る ]