掲載時肩書 | 彫刻家 |
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掲載期間 | 1987/08/01〜1987/08/31 |
出身地 | 長崎県 |
生年月日 | 1923/02/14 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 64 歳 |
最終学歴 | 立命館大学 |
学歴その他 | |
入社 | 海軍飛行予備22歳 |
配偶者 | 恋多く、妻記載なし |
主な仕事 | 鹿島神流剣道、刀鍛冶入門、石工、広島シャモジ、庭師、NY・stone/crazy、WorldTradeCenter「雲の砦」、全国各地に彫刻 |
恩師・恩人 | 今里広記 |
人脈 | 隅谷正峯(刀剣)、淡島千景、前川国夫、村田省蔵、和辻春樹、黛敏郎、宇野収、藤田慎一郎 |
備考 | 酒と女と人情人生、父:中川小十郎(立命館総長) |
1923年2月14日- 2018年7月7日)は長崎県生まれ。彫刻家、作庭家。海軍飛行科予備学生(第14期)出身の零戦パイロットとして終戦を迎える。戦後は日本全国を放浪。独学で彫刻を学び、1963年に渡米。作品『受』は1960年にニューヨーク近代美術館の永久保存作品(パーマネントコレクション)として収蔵されており、彼の国際的評価の高さを裏付けている。1964年にニューヨーク世界博覧会で壁画「ストーンクレージー」(日本から2,500個、600tの石を運んだ。)を展示し話題を呼ぶ。1967年には、TIMEにより、日本を代表する文化人の一人として紹介された。1975年には、ニューヨーク世界貿易センターのシンボルとして約250トンの巨大彫刻『雲の砦』をつくり国際的評価を得る。歯切れ良いべらんめえ口調の痛快文章。
1.履歴は放浪無頼
石と出会い、石を刻んで30年。彫刻家と呼ばれるようになった今も、どうもこれが定職とは思いにくく、心にあるはうまいおかずと色恋のことばかり。それにひかれて北へ南へ、果ては太平洋の向こうまで、ついふらふらと旅の空だった。
2.父・中川小十郎
父は”西園寺公望の懐刀“と呼ばれて歴史のウラオモテに見え隠れする不思議な男。東大独法に学んだころの逸材ぶりを夏目漱石が書いている。台湾銀行頭取、樺太庁長官、西園寺内閣書記官長とオモテ街道をひた走る。京都に戻れば立命館総長、貴族院議員。その一方で、清水次郎長の養子、愚庵和尚に庵を与えて末期をみとり、滝川事件で京大を追われた末川博ら「自由主義教授」を立命館に一手引受け、親分肌を見せる伊達男であった。学者ならぬ国士、右翼の黒幕と目されながら、右ばかりか左にも金を渡して応援する奇怪さ。いや、世のため、人のために尽くす男は分け隔てなく助けにゃならん、が父の論理。
あるとき父は、私を京都の料亭に呼び、7,8人の壮士を周りに置いて、食事中に次の間で謡曲をうならせる暮らしぶり。私をほんまの男に仕立てたいと、山岡鉄舟が使ったという木剣を与えて古流武道、後に鹿島神流の剣法を習わせ、神道を叩き込む。その一方で、やたら食事をしようとの呼び出し電報があった。
3.海軍飛行科予備学生で
学徒出陣で第14期海軍飛行科予備学生となる。佐世保を振り出しに、土浦、出水、筑波、霞ケ浦、三沢と転々。航空隊暮らしの楽しみは外出、海軍用語でいうところの「上陸」。いい女にめぐり合わんと、支給の石鹸、缶詰をため込むが、妻帯者でないと土曜の晩に上陸できぬのがシャクのたね。ここは度胸で乗り切るほかなしと、帽子をバケツの水につけて貫録を付け、帽章、襟章には塩振りかけて錆を出し、コートの襟くずして隊門から堂々脱出。見かけ上級士官となりすます。「脱」と称することの手口、のち全航空隊に広まり感謝されるも、企画の深さと度胸の良さ褒められもせず、遂に甲板士官に見破られ尋問の憂き目。「貴様は妻がおるのか」、「ハイ、外縁の妻がおります」・・・・。敬礼。
その後は、空と海を舞台の毎日の殺し合い。キラキラとジュラルミンをまき散らし、ボーッと火の玉となって墜ちゆく飛行機があんなに美しく見えるとは。私の作品のどこかに虚無が漂うとしたら、あのあやしい美しさにいまだに惑わされている故に違いない。
4.600トンの大壁彫「ストーン・クレージー」に挑戦
1963年、冬のニューヨークに降り立ったのは雪の少ない四国からガバナーこと太田秀雄はじめ、私を含めた石工塾の7人の侍。国破れて雪が降り、雪は涙がため息か。武器なき敵前上陸の目的は、ニューヨーク世界博に出展する金も無く並べる物とて少ない日本館、建築は前川国男、外壁に重量600トンの石のながれ外壁画かつぎ上げと取り付ける作業だった。
さぁ、半てん地下タビのいなせな仕事着で行こう。ところがここはユニオンの縄張り。地下タビを使用してはならぬ、鉄をはめ込んだ作業靴を履けと、野暮なユニオン頭の申し入れ。高い所では地下タビでないと危なくて仕事できん、と反論すれば、ならば重たい靴でも働ける安全で大仕掛けの足場を組め、と。
知恵絞っての戦いは、フォークリフト走らせる大レース。これには、向こうの西部劇魂も黙っちゃいない。
「日本にも車があったとは知らなんだ」。腕にイレズミの大男、大きなフォークリフトからどなる、ジャッジ野田敏雄、器用な運転技術に小回り利かせ、日本から運んだ小さいフォークリフト、クルクルッと動かし、たちまちゴールイン。小柄なスタッフ、吹雪の中で、大石引き上げ、組み上げる。そのうち、ちっちゃな日本人石工の大仕事が大評判。工事現場は連日の人だかり。アメリカだって浪花節、としみじみ知る。
礼儀正しいこの七人の侍の真の勇気、あちこちのガンマンにも伝わったのか、ユニオンの制約に苦しみ、仕事とまると伝わると「ナガレたちの仕事を挫折させるな」とニューヨーク・タイムスに支援の記事、3度。労働者たちも「あいつら、時間外手当もないのに、クレイジーなんだ」とあきれとも尊敬ともつかぬ声。仕事手伝う青年たちも現れ、スタッフの顔見ては「ストーン・クレージー」の大合唱。やがてこの大壁画を人々は、「ストーン・クレージー」と呼ぶようになった。
氏は’18年7月7日95歳で亡くなられた。この「履歴書」登場は1987年8月で64歳のときであった。氏の父親は立命館大学の総長でもあった中川小十郎で、西園寺公望内閣の書記官長を務め、「西園寺の懐刀」と呼ばれていたと書いている。この「履歴書」に登場する彫刻家は他に朝倉文夫、北村声望、佐藤忠良、飯田義国の5人である。
氏は自称「放浪無頼」と書き、初日の書き出しを、1.生年:大正12年長崎生まれ、2.住所:不定なるも四国の庵治にスタジオを構え、3.声:ドスのきいた低音、4.目つき:ギラギラと鋭く、しばしば警官に不審尋問される、から始まり「食」と「恋」の人生、履歴書無用、彫刻家は定職と思えず、とべらんめえ口調で綴る異色な人物であった。
しかし、世界各地を放浪、独学で彫刻を学ぶ。1964年にニューヨーク世界博覧会で壁画「ストーンクレージー」(日本から2500個、600tの石を運んだ。)を展示し話題を呼ぶ。1975年には、ニューヨーク世界貿易センターのシンボルとして約250トンの巨大彫刻『雲の砦』をつくり国際的評価を得る。日本国内にも多くの有名作品を残している。また、彫刻家として活躍するかたわら、庭園の作品も残す。代表作に東京天理教館庭園、皆生温泉東光園庭園などがある。
そして最終稿には、こんな捨てセリフを残している。「作家は芸者で画商は置き屋。芸者は整うたお座敷、あでやかな衣装に包んで、ちょっと手に届きにくい格式が美しく見せ、人に夢を与える。それだけに直接、喫茶店に呼びだしゃ安かろうと、くずれた洋装で会っても、みもふたもない。作家とておなじこと。置き屋の画商はより高く、より上等に見せるのが極意」だと歯に衣を着せぬ辛らつな言葉だった。