佐藤忠良 さとう ちゅうりょう

芸術

掲載時肩書彫刻家
掲載期間1988/06/01〜1988/06/30
出身地宮城県
生年月日1912/07/04
掲載回数29 回
執筆時年齢76 歳
最終学歴
東京藝術大学
学歴その他
入社
配偶者弁当 デート
主な仕事新制作派協会、シベリア抑留、「群馬の人」、造形大学、パリ、NY、英国で個展、
恩師・恩人岩瀬久雄、本郷新
人脈舟越保武、小磯良平、猪熊弦一郎ら(若手新派)、船山馨、朝倉摂(父:文夫先生)、桑沢洋子
備考主夫業得意
論評

1912年7月4日 – 2011年3月30日)は宮城県生まれ。彫刻家。舟越保武とともに日本を代表する彫刻家。新制作協会彫刻部創立会員。生き生きとした女性像などをブロンズや木彫で表現した。本の装幀の仕事もこなし、福音館書店版の絵本『おおきなかぶ』の挿絵なども手がけた。女優の佐藤オリエは娘。

1.新制作派協会彫刻部の創設
昭和14年(1939)、東京美術学校を卒業したが、前後してこの新制作派協会彫刻部が7人で創設された。参加者は一番上が本郷新34歳、次が山内壮夫33歳、偶然だが二人とも札幌二中の先輩であり、私を含めて三人が同じ中学出というのも不思議な巡り合わせであった。その下が早く亡くなった明田川孝32歳、柳原義達29歳で、吉田芳夫、舟越保武、佐藤忠良がいずれも27歳だった。

2.ジャガイモ顔「群馬の人」
この作品は新制作展に出品したが、会場に運ぶ朝になっても、失敗してしまったようで、出す気分になれず迷っていた。良かれ悪しかれ作家には自己顕示欲がある。なんだがジャガイモみたいな顔になってしまい、予想できる他の連中の作品と比べても見栄えが悪い。出品には割合勇気がいったが、とにかく見てもらおうと思い切って運び込んだ。
 そんな不安と裏腹に、この作品は大変評判が良かった。日本人の手で初めて日本人の顔を作ったというのが大方の評価だった。それまでの日本人の作るヨーロッパ風の彫刻は、まずギリシャ彫刻の模刻あたりから始め、目鼻立ちのはっきりした顔がモデルになるという思い込みがあって、「群馬の人」以前にも日本人をモデルにした、それらしい顔はあるけれど、なんとなく外国臭い手触りがあったのだろう。翌年、国立近代美術館に、この作品が収蔵されることとなり、本当に驚いたが、私の作風は以後「穢(きたな)作り」と呼ばれた。

3.洋裁学校でデッサンを指導→東京造形大学関与に発展
シべリアから帰って間もなく、知らない人だったが桑沢洋子という人から洋裁学校のデッサンの指導をやって欲しいと頼まれた。彼女は戦前、女子美の洋画部を出た後、住宅雑誌の記者をしたり、婦人画報でモード記事を担当していた。彼女は「何のために洋服が必要なのか、デザインが必要なのかといえば、その基本には人間がある」という考え方であった。そのためには、まるでデザインが人間を着ているような服ではなく、機能的で運動量をきちんと考えた「働き着」の必要性を強く主張した。そうした洋服を作り、デザインを学ぶためには、デッサンという無駄をさせなければダメだという。
この考え方に私は共鳴して手伝うようになったが、最初は洋裁学校、そして洋裁学院、ついには桑沢学園が併設した東京造形大学の主任教授と理事も引き受けることになったのだった。

4.欧米と日本文化の比較
パリ、ロンドン、ニューヨークと私は個展を開催させてもらうことができた。ニューヨークでは地下鉄でも他人の家の壁でもお構いなしに、絵だとか字だかわからないようなものをバーッと描いてあるけれど、そういうのを描く人が、ある日、大スターになるのがニューヨークの画壇らしい。
 そうした人間の風景を見て実感したのは、日本はいたわりの文化だということであった。外国では、例えばフランスの隣にスペインがあり、ドイツがありといった風に、国境を越えて割合風通しがいいが、日本ではシルクロードを通って文化人が来ても、その先は太平洋で行き止まりだから、そこで吹き溜まりになる。
 ところがニューヨークでは新しい才能がビューッと出てくると、競り負けた奴は下までドーンと落ちてしまい、全財産を下げてウロウロ歩くようになるのだろう。日本では飛び出してくるという感じはないし、落ちる場合も下まで行く間にフワッといたわりの手が出てきて抱きとめてくれる。彫刻でも、向こうは凄いエネルギーを感じさせるが、日本のものはエレガントで、きれいで、どっちからも指を差されないようなものが多い。

佐藤 忠良(さとう ちゅうりょう、1912年7月4日 - 2011年3月30日[1])は、日本彫刻家新制作協会彫刻部創立会員。

  1. ^ 彫刻家、佐藤忠良さん死去 “帽子シリーズ” - 47NEWS(よんななニュース)
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