河竹繁俊 かわたけ しげとし

映画演劇

掲載時肩書前早大演劇博物館長
掲載期間1960/10/03〜1960/10/27
出身地長野県
生年月日1889/06/09
掲載回数25 回
執筆時年齢70 歳
最終学歴
早稲田大学
学歴その他早大予
入社河竹黙 阿弥の長女に養子
配偶者黙 阿弥の親戚娘
主な仕事文芸協会(逍遥、抱月)、演劇研究所、木阿弥伝、NHK講座、日本演劇全史、 演劇博物館、演劇百科辞典
恩師堀内逍遥
人脈松井須磨子(2歳上)、沢田正二郎、川上貞奴、竹柴其水、小山内薫、守田勘弥、久保田万太郎、水谷八重子、大谷竹次郎
備考逍遥と黙阿弥は友人
論評

1889年6月9日 – 1967年11月15日)は長野県生まれ。演劇学者。文学博士。早稲田大学に在学中、坪内逍遥の文芸協会演劇研究所に入り、俳優、演出助手を務める。1911年、逍遥の推薦で河竹黙阿弥の娘・糸女の養子となる。1923年、早稲田大学講師、のち教授。演劇博物館館長を務め、歌舞伎史、比較演劇を中心に演劇史を研究した。

1.黙阿弥伝の完成
黙阿弥の二十三回忌を大正5年(1916)の1月22日に迎えることになったので、私はこの機会に黙阿弥伝をこしらえたいと決心した。ちょうど養母や竹柴其水(黙阿弥門弟総代)からの聞書も十数冊になり脚本解題もだいたい卒業に近かった。この計画に対しては逍遥先生も「それは結構だ、ぜひやりたまえ」と激励してくれた。
 これに勇気を得て、まず新聞や雑誌に出た黙阿弥の伝記資料を集め、その整理方法について考えた。原稿作成のプランを立て、向こう1年間で書き上げるつもりで原稿の作成に取り掛かった。それからの半年間、私はまったくの門外不出、一歩も出なかったと言っていい。室内で適当に運動しながら約5百枚の原稿を書き上げた。そうしてまず養母と其水に読んで聞いてもらい、清書したのを逍遥先生と饗庭篁村とに読んでもらった。篁村は黙阿弥からの直接見聞を書き添えてくれ、両者とも序文を飾ってくださった。
 黙阿弥伝は、狂言作者としてはもとよりだが、文学者の伝記としても、量的にも大きいものだったので、未熟ではあったにもかかわらず諸先輩からお褒めの言葉をいただくことができた。

2.逍遥先生の後光で遺品が集まる
逍遥先生との関与もあり演劇博物館館長にもなり、年数をふるにしたがって芸術博物館として体裁を整えるようになった。それに伴い、俳優からの寄贈品もおいおい多くなった。早くには沢田正二郎の遺品、近くには五世歌右衛門、七世中車、先代梅幸、十五世羽左衛門、近くは六代目菊五郎や吉右衛門からも、その没去に際しては多数の寄託もしくは寄贈がなされた。これらは私との個人関係もないではないが、やはり逍遥先生の後光がさしているからであった。
 十五世羽左衛門が、本間久雄、阿部豊両氏と同道で演劇博覧会を観覧してくらたとき、故梅幸の寄贈品である「土蜘蛛」や「茨木」の衣装や小道具を見て「あっしも一つよこしましょう」というわけで、やがて彼の当たり役を伏木英秀の描いた尺八絹本極彩色の掛け物を12幅届けてくれた。のみならず自身で箱書きをしに来てくれた。それだけが戦災で焼け残って、家庭に残した3.4幅は灰塵に帰した。これらの軸は羽左の名優ぶりを等身大に写したもので、今も珍蔵されている。
 一筆斉文調の版画百余点という吉田映二氏のコレクションを前川道平氏が寄贈してくださったこと、安田一氏が二代安田善次郎の収集演劇図書を寄贈されたこと、なども忘れられない。

3.名優の「勧進帳」を映画に残す
歌舞伎十八番の「勧進帳」の映画―七世松本幸四郎の弁慶、十五世市村羽左衛門の富樫、六代目菊五郎の義経という配役の映画は、今もときどき珍重して持ち出される。私としてはまことに本懐であるというのは、じつはこの映画は、口はばったいことをいって恐縮だが、私が推進しなかったら、残されなかった。
 時は昭和18年(1943)秋、太平洋戦争の悲壮な場面を展開し、学徒動員の行われている真っ最中、歌舞伎座では11月、12月の連続興行に「勧進帳」を出した。それが前記の配役なのである。
 松竹の大谷竹次郎社長の映画撮影の了解を得たうえ、NHKにもラジオで中継放送をして録音してもらう約束もとった。12月19日に1時間半の番組にして全国放送をし、私が解説をした。翌年の3月編集ができたので、まだ焼けなかった平河町の文相官邸で、岡部文相の招待で試写会が開かれ、松竹大船の人たちに俳優も私も招かれた。

河竹繁俊

河竹 繁俊(かわたけ しげとし、1889年6月9日 - 1967年11月15日)は、日本の演劇学者。文学博士。旧姓は市村(いちむら)。

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