河竹登志夫 かわたけ としお

映画演劇

掲載時肩書演劇研究家
掲載期間2010/05/01〜2010/05/31
出身地東京都
生年月日1924/12/07
掲載回数30 回
執筆時年齢86 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他成城高 7年制 早稲田大学
入社高校教師
配偶者2度目22歳(18下)
主な仕事早大文・演劇聴講生、ハーバード研究員、歌舞伎訪米顧問、「比較演劇学」、「作者の家」、ハムレット研究、歌舞伎教室、天覧歌舞伎
恩師小平邦彦、新関良三
人脈阿部公房(同級)、北大路欣也・松本幸四郎・吉永小百合(教え)、永山武臣、金井俊一郎、野村万作、
備考黙阿弥ひ孫、料理・包丁
論評

1924年12月7日 – 2013年5月6日)は日本の演劇学者。演劇研究家・河竹繁俊の二男として東京に生れる。祖母(繁俊の養母)の糸女は幕末から明治にかけての歌舞伎狂言作者河竹黙阿弥の娘である。東京帝国大学理学部物理学科卒業、早稲田大学第一文学部演劇学科、同大学院を経てハーバード・エンチン研究所客員研究員として招かれた。歌舞伎を西洋演劇との比較で論じる比較演劇が専門で歌舞伎の海外公演に同行し、観客の反応を調べたりした。

1.歌舞伎座「さよなら公演」のフィナーレに登場
この公演が盛況裡にフィナーレを迎えた。俳優と関係者約200人が舞台に並んでの華やかな式典。その最前列中央で、私が冒頭に「狂言名題披露」をした。奉書に墨書された当月の演目を読み上げるのである。
 本来は立役者つまり狂言作者のチーフの役目だが、今回は公開のいわばお祭りとあって、頼まれたのだった。それは私が、「弁天小僧」や「三人吉三」で知られる最後の歌舞伎作者河竹黙阿弥の曾孫に当たるからだ。120年前、明治22年(1880)の歌舞伎座創立のときは、黙阿弥がこの役を務めたと伝えられる。

2.小平邦彦教授の異才ぶり(自らの凡庸さを痛感)
昭和18年(1943)に東京大学理学部物理学科に入学した。ひそかにノーベル賞を夢見る私は、物理数学理論と相対性理論を講じる小平邦彦助教授についた。数学と物理の両科を出て当時30歳、やがて数学のノーベル賞とされるフィールズ賞に輝き、42歳で最年少の文化勲章受章者となる大天才学者だ。
 諏訪に近い先生の実家へお邪魔したときのこと、母上と奥さんに迎えられて夕食がすすんだ。終わると、先生は突然まだ片づいていないお膳の上に紙を広げて、何やら書き始めた。見たこともない数式が鉛筆の先からよどみなく流れ出していく。それは戦争や周囲の騒音から完全に絶縁された、純一無雑な、しかも鼻唄がきこえてきそうな自然な姿だった。ああ、天才とはこういうものかと、翻然と悟った。自らの凡才凡俗を認めざるを得ない。科学を志してわずか4年で骨身に沁みるほろ苦い挫折感であった。

3.歌舞伎の米国初演に同行
昭和35年(1960)の早春のある日、成城の自宅へ松竹演劇部の永山武臣さんが大谷竹次郎社長の名代として訪ねてきた。歌舞伎米国公演に、文芸顧問として同行をとの依頼だった。日米修好百年記念の文化使節として、史上初の訪米だという。お役に立てばと承諾した。
 役目は解説、イヤホーン同時通訳の監修、記者会見の対応、観客調査、記録報道など。公演先はニューヨーク、ロサンゼルス、サンフランシスコだが、基本方針は、外国向けのアレンジなどはせず、できるだけ最高の本物を観てもらうことであった。一行は先代勘三郎、二代目松緑、六代目歌右衛門ほか64人、演目は「勧進帳」「道成寺」「忠臣蔵」その他だった。
 だがなにしろ最初のこと、準備段階から試行錯誤が多く、そのたびに歌舞伎の特質が際立ちもする。まず西洋にない花道、消防法のため客席の中は許されず、出入り口の扉に揚幕を垂らして斜めに仮設するしかない。短いので、「勧進帳」の幕外の引き込みに、弁慶役の松緑さんが、「これじゃ飛び六法じゃなくて、飛び二法だ」と苦笑した。
 公演結果は大好評で一同大喜びしたが、観客の反応には予想外のこともあった。外国人には文句なしに喜ばれると当事者も思い込んでいた「道成寺」がさほど受けず、逆に難しかろうと心配していた「忠臣蔵」が絶賛されたのである。結局それは、誰にでも共感できるドラマが感じ取れるかどうかにあると分かった。
世界に共通する部分と日本独自の特殊な美意識。そうした反応は、その後何回もの海外公演で集めた6500通にのぼるアンケートの分析で、数値でも証明されている。

追悼

河竹氏が’13年5月6日に亡くなった。江戸末期から明治にかけて活躍した歌舞伎狂言作者の河竹黙阿弥を曾祖父に持つ。

氏の父親・河竹繁俊氏も「私の履歴書」に昭和35年(1960)に登場しているので、親子二代となる。親子二代にわたり執筆したのは、井植歳夫・敏(三洋電機)、石井光次郎(政治家)・好子(歌手)、河野一郎・洋平(政治家)、五島慶太・昇(東急グループ)、中村鴈治郎Ⅱ・鴈治郎Ⅲ(現・坂田藤十郎)、細川護貞(皇室縁戚)・護熙(政治家)、諸橋徹次(学者)・晋六(三菱商事)、立石一真・義雄(オムロン)の9親子である。

河竹氏は、東大の理学部物理学科を卒業し、ハーバード大学に留学した経歴を持つ。この人が何故演劇の道に進んだのかが興味深かった。氏は、日本と西洋の演劇を比較研究する比較演劇学という分野を初めて開き、67年には「比較演劇学」を刊行した。
歌舞伎俳優の松本幸四郎氏は、「河竹先生は様式性が過剰な西洋のバロック演劇との共通点を見いだし【歌舞伎はバロックだ】とおっしゃった」と述懐している。

河竹 登志夫
人物情報
全名 かわたけ としお
生誕 (1924-12-07) 1924年12月7日
日本の旗 日本 東京府東京市
死没 (2013-05-06) 2013年5月6日(88歳没)
日本の旗 日本 東京都
出身校 東京帝国大学早稲田大学
学問
時代 昭和 - 平成
研究分野 演劇学
学会 日本演劇学会
主な受賞歴 紫綬褒章、勲三等旭日中綬章
恩賜賞日本芸術院賞
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河竹 登志夫(かわたけ としお、1924年12月7日 - 2013年5月6日)は日本の演劇学者。学位文学博士

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