掲載時肩書 | 日本社会党組織局長 |
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掲載期間 | 1963/02/01〜1963/02/28 |
出身地 | 岡山県 |
生年月日 | 1907/07/29 |
掲載回数 | 28 回 |
執筆時年齢 | 56 歳 |
最終学歴 | 一橋大学 |
学歴その他 | 神戸高商 |
入社 | 大衆党 |
配偶者 | 幼稚園保母 |
主な仕事 | 全国大衆党、県会議員、懲役(2年6月)、葬式屋、北京、参議員、社会タイムス、浅沼事件 |
恩師・恩人 | |
人脈 | 山上武雄、山川均、椿繁夫、佐々木更三、浅沼稲次郎、鈴木茂三郎、河上丈太郎、成田知巳 |
備考 | 野鳥の権威? |
1907年〈明治40年〉7月29日 – 1977年〈昭和52年〉5月22日)は岡山生まれ。政治家。参議院議員(2期)、衆議院議員(4期)、日本社会党書記長、日本社会党委員長代行、日本社会党副委員長、社会市民連合代表(初代)などを歴任した。江田は日本の革新系政治家の中でも群を抜いた国民的人気を誇っていた。自由民主党の田中角栄は江田の国民的な人気を警戒し、「社会党が、江田を党首にした場合の総選挙が一番恐しい。社会党は大きく伸びるだろう」と記者会見で述べ、江田が社会党の委員長に就任することを恐れていた。長男は元参議院議長の江田五月。
1.懲役2年6月
僕は共産党員ではないが、共産党の運動に結果として利益を与えているという理由で、2年あまりのブタ箱と未決生活の後、治安維持法違反として懲役2年6月の刑を言い渡され服罪した。ことの起こりは支那事変が昭和12年(1937)に始まり、年の暮れにいわゆる人民戦線事件として、労農派グループは中央段階で一斉検挙を受け、僕にも及んだのだった。それから一年余り、岡山県下のブタ箱を転々と回された。平素は独房だが、ばくち打ちの一斉手入れでもあると超満員になる。用便にはおまるが室内に置いてあり、超満員だとこれが一杯になり、部屋にこぼれ出てくる。風呂はなくシラミがわいて困った。
それでも独房の時は本が読めた。妻は家をたたんで実家に帰り、グンゼの絹製品の行商をしたり、後にはトラック会社の事務員になって、一日一回の弁当と着物の差し入れを続けてくれた。本は主として日本の古典、外国のものだとシェイクスピアやゲーテなどを読んだ。社会科学書は禁ぜられていたので読めなかったが、福沢諭吉や田口卯吉など明治の人々のものはたいてい読んだ。
2.葬儀屋になる
昭和16年(1941)秋、僕は刑期を少し減らされて出獄した。いったい何をして食ってゆこうか。特高警察は毎日顔を覗きに来る。神戸にいる畔平という僕の支持者から、葬式会社をやろうと思うが、やってみないかという連絡があった。僕は直ぐ飛びついた。自動車屋である僕の支持者、神戸高商出の神官、京大出の坊主、それに二人の葬式専門屋などで、株式会社交詢社を創立した。僕は支配人格だったが、事務所に座っているのではなく、現場に出かけた。最初の頃、宗派を間違えて小言を食ったりしたが、まもなく納棺でも飾り付けでも骨拾いでも一人前にこなせるようになった。
僕は坊主より葬式屋の方が格が上だと思っている。坊主はわけのわからないお経を読み上げて終わりだが、そのあと別れを惜しむ家族を納得させて、棺に釘を打つのは葬式屋である。坊主は死者に引導を渡すが、葬式屋は生き残った家族に引導を渡す。死んだ赤ちゃんに、もう一度乳房(ちぶさ)をくわえさせたいと泣きぬれる若奥さんを、なだめすかすのは葬式屋なのだ。
3.浅沼事件と党葬
1960年岸信介内閣は倒れ、池田内閣に代わったが、総選挙は時間の問題となった。10月12日、日比谷公会堂のNHK主催三党首の立会演説会で、浅沼委員長が凶手に倒された。このとき、僕は院内の記者クラブにいたが、知らせを聞いて会場に駆け付けたところ、すでに病院に運ばれたという。すぐ病院にまわると、人工呼吸が行われていた。かたわらの委員長秘書が「もうだめです」という。自宅から駆け付ける夫人を待たないで、医者が最後の宣告をした。僕は涙に濡れながら、党声明を書いた。数時間を待たず浅沼虐殺抗議デモが起きた。遺骸は一度自宅に運ばれ、後に党本部に移され通夜が行われた。
10月20日、委員長が倒された日比谷公会堂で党葬が行われた。同じとき、全国各地で追悼の集会が持たれた。この党葬で、僕は党代表として弔辞を読んだ。浅沼未亡人は「あれだけ多くの人々の前で殺される浅沼に、なぜ誰一人として手を貸してくれなかったのか」と訴えられた。安保、三池の闘いには、幾度か右翼テロが起こった。当然それに対する警戒が行われなければならなかったが、それがなかった。
江田 三郎 えだ さぶろう | |
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1963年撮影 | |
生年月日 | 1907年7月29日 |
出生地 | 日本 岡山県久米郡福渡村(現:岡山市北区建部町) |
没年月日 | 1977年5月22日(69歳没) |
死没地 | 日本 東京都 |
出身校 | 神戸高等商業学校(現:神戸大学)転学 東京商科大学(現:一橋大学)中退 |
前職 | 全国農民組合岡山県連書記長 |
所属政党 | (日本社会党→) (左派社会党→) (日本社会党→) 社会市民連合 |
称号 | 永年在職議員(両院通算) |
親族 | 長男、江田五月 |
選挙区 | 岡山県第2区 |
当選回数 | 4回 |
在任期間 | 1963年11月22日 - 1976年12月9日 |
選挙区 | 岡山県選挙区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1950年6月5日 - 1962年7月7日 |
初代 社会市民連合代表 | |
在任期間 | 1977年3月26日 - 1977年5月22日 |
選挙区 | 上道郡選挙区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1947年 - 1948年 |
選挙区 | 上道郡選挙区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1937年 - 1937年 |
江田 三郎(えだ さぶろう、1907年〈明治40年〉7月29日 - 1977年〈昭和52年〉5月22日)は、日本の政治家。
参議院議員(2期)、衆議院議員(4期)、日本社会党書記長、日本社会党委員長代理、日本社会党副委員長、社会市民連合代表(初代)を歴任した。長男は元参議院議長の江田五月。