掲載時肩書 | 作家 |
---|---|
掲載期間 | 1956/12/22〜1956/12/31 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1885/05/12 |
掲載回数 | 10 回 |
執筆時年齢 | 71 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 学習院 |
入社 | 文筆 |
配偶者 | 離婚、再婚 |
主な仕事 | トルストイに心酔、白樺、「他人を不幸にしない生活」が第一「新しき村」、ゴッホ紹介、生成会 |
恩師・恩人 | 夏目漱石 |
人脈 | 白樺(志賀、木下、正親町)、里見弴、柳宗悦、有島生馬、バーナード・リーチ、長与善郎 |
備考 | 兄ドイツ 大使 |
1885年(明治18年)5月12日 – 1976年(昭和51年)4月9日)は東京生まれ。小説家・詩人・劇作家・画家。貴族院勅選議員。華族の出で、トルストイに傾倒し、『白樺』創刊に参加。天衣無縫の文体で人道主義文学を創造し、理想的な調和社会、階級闘争の無い世界という理想郷の実現を目指して、1918年(大正7年)に宮崎県児湯郡木城村に「新しき村」を建設して実践運動を行った。伝記や美術論も数多い。
1.家庭環境
僕の家は公家出で、僕の父は当時としては新知識の持ち主で、ドイツに7年ばかり留学して帰って来た男でしたから、僕の家は公家出としては昔通りの習慣がよほど崩れていたと思いますが、それでも付き合う連中が、公家出が多く、親類はみな公家出ですから、勢い公家らしい風習は残っていたと思います。
父のことは「おでえさん」、母のことは「おたあさん」と呼んでいましたし、父が死んだあと、ずい分倹約な生活はしていましたが、それでも女中は3人、書生は2人使っていました。
2.トルストイに傾倒
トルストイに自分が夢中になったのは、19から21,22歳の3年間だと思いますが、この2、3年の思想的洗礼を受けてから、僕の人生に対する考え方はすっかり変わったのです。今の僕はトルストイの人生観とは根本的に違って、僕はトルストイより自然の力の方がはるかに深い考えで、人間をつくっていると思いますが、しかし一時はトルストイの考えを絶対的のように考え、彼の教えの生活をしないと生き甲斐は得られないと思い、彼のいう通りの生活をしたいと思いました。
他人を不幸にしない生活、それが平和の第一条件だということは、トルストイを知ってから忘れることができない事実になり、その後この一点から僕の人生観、社会観は成り立ってきたわけで、他人を一人でも犠牲にしなければならない主義には、主義として賛成できなくなったわけです。
3.「白樺」と夏目漱石
僕は大学を中退した後、志賀直哉、木下利玄、正親町公和の4人でお互いに遠慮のない批評ができる「白樺」という回覧雑誌を出していました。その後志賀は、里見弴の兄の有島生馬と友達だったので、里見の同級生たちもその前後に回覧雑誌を出していましたが、それらの人と知り合い、また柳宗悦たちとも知り合い、その結果、学習院の文学好きが10数人で明治43年(1910)4月に雑誌「白樺」を出しました。
その初号に当時、文壇に一番勢力を持っていた、自由主義の人たちから悪評されていた、漱石の「それから」の評を我々が出しましたが、それが漱石・・夏目さんと僕たちは呼んで尊敬していましたが・・の目に留まり、朝日新聞の文芸欄に何か書くように言われ、原稿料をいただけるようになりました。
4.「新しき村」を始める
自他共に生き、全部の人も生きる。その世界に住む人は誰でも天寿をまっとうし、個性を生かせる世界があったらさぞいいだろうと考え、同志と協力して新しき村の仕事を始めることになった。大正7年(1918)33歳の時、宮崎県児湯郡木城村に移り住み、それから41歳の1月まで日向の新しき村に住んだのです。
初めはみんなと一緒に働きました。朝早くから川向こうの石河内の本村から川を渡って村で働き、日が暮れて家に帰りました。開墾もし、一里五町(6km)ある山道を、家を建てる木材を担いだりました。もちろん、他の人の三分の一ぐらいが、やっと担げ、それでも相当まいり、急な坂道を登るとき足が思うように上がらず、夢にまで見ました。世間では、ことに社会主義の人々からは空想社会主義といって悪口されました、僕の立場は人類の意思と自分の信じる真理によったので、社会主義とは別の立場で始めたもので、悪口を言われても見当違いすぎて問題になりませんでした。
武者小路 実篤 | |
---|---|
誕生 | 1885年5月12日 日本 東京府東京市麹町区 (現・東京都千代田区) |
死没 | 1976年4月9日(90歳没) 日本 東京都狛江市 |
墓地 | 中央霊園(東京都八王子市) |
職業 | 小説家・詩人・劇作家・画家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 学習院高等科卒業 東京帝国大学社会学中退 |
ジャンル | 小説・詩・戯曲 |
主題 | 理想主義 |
文学活動 | 白樺派 |
代表作 | 『お目出たき人』(1911年) 『その妹』(1915年、戯曲) 『幸福者』(1919年) 『友情』(1919年) 『人間万歳』(1922年、戯曲) 『愛慾』(1926年、戯曲) 『愛と死』(1939年) 『真理先生』(1951年) |
主な受賞歴 | 文化勲章(1951年) 贈従三位(1976年、没時叙位) |
親族 | 勘解由小路資生(祖父) 武者小路実世(父) 武者小路公共(兄) 武者小路実光(甥) 武者小路公秀(甥) 武者小路穣(娘婿) |
ウィキポータル 文学 |
武者小路 実篤(むしゃのこうじ さねあつ、旧字体:武者小路 實篤、1885年〈明治18年〉5月12日 - 1976年〈昭和51年〉4月9日)は、日本の小説家・詩人・劇作家・画家。貴族院勅選議員。華族の出で、トルストイに傾倒し、『白樺』創刊に参加。天衣無縫の文体で人道主義文学を創造し、「新しき村」を建設して実践運動を行った。伝記や美術論も数多い。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。名誉都民。贈従三位(没時叙位)。
姓の武者小路は本来「むしゃのこうじ」と読むが、実篤は「むしゃこうじ」に読み方を変更した[1]。しかし、一般には「むしゃのこうじ」で普及しており、本人も誤りだと正すことはなかったという。仲間からは「武者」(ムシャ)の愛称で呼ばれた。