橋本登美三郎 はしもと とみさぶろう

政治

掲載時肩書衆議院議員
掲載期間1975/10/15〜1975/11/11
出身地茨城県
生年月日1901/03/05
掲載回数27 回
執筆時年齢74 歳
最終学歴
早稲田大学
学歴その他早稲田 二高等
入社朝日新聞
配偶者婦人記者
主な仕事満州従軍記者、馬占山会見、南京、大阪、東京、潮来町長、衆議員、沖縄、日航ハイジャック
恩師・恩人佐藤栄作(心友)
人脈浅沼稲次郎(2年上)、荒巻秀雄・緒方竹虎・河野一郎(朝日)、国会同期(佐藤・池田・前尾)、角栄、橋本凝胤、高田好胤
備考家:米・廻船問屋、慈母観音
論評

1901年3月5日 – 1990年1月19日)は茨城県生まれ。政治家。自由民主党衆議院議員。自民党幹事長、建設大臣、運輸大臣などを務めた。岸内閣の後の第1次池田内閣の建設大臣兼首都圏整備委員会委員長として初入閣。佐藤栄作の側近として、田中角栄、保利茂、愛知揆一、松野頼三とともに「佐藤派五奉行」の一翼を占める。1964年に佐藤内閣が発足し、内閣官房長官、建設大臣、党総務会長、運輸大臣を歴任。佐藤退陣を受けての角福戦争では田中派の大幹部として、総裁選挙で田中角栄を擁立、田中内閣成立をうけて、自民党幹事長に就任した。政権の大番頭として田中を支える。運輸大臣在任中の1970年に、日本航空機がハイジャックされる、いわゆる「よど号ハイジャック事件」が発生。主管大臣として犯人側との交渉に当たった。

1.早稲田弁論部
大正10年(1921)、私は早稲田第二高等学院の一期生として入学した。同期生には長谷部忠君(元朝日新聞社長)がいた。入学そうそう弁論部の幹事長を仰せつかった。当時の早稲田雄弁会は、政治に志を抱く青年の集まりでもあった。浅沼稲次郎三宅正一、稲村隆一、戸叶武などの諸君が盛んにやっており、早稲田弁論会の全盛期だった。
 こうして、私の早稲田時代は、弁論・雄弁会を中心に青春の血を燃やし、友と出会い、共に志を語ったのである。弁論部員は、毎週1、2回「弁論例会」を開き、その21番教室は革新の声花盛りの観であった。

2.終戦日の新聞編集局
南京・上海支局時代で、私の現場記者としての仕事は終わった。昭和19年(1944)春、東京本社の東亜部長になった。戦局は重大な段階にあり、南方諸島の敗退、玉砕の報がしきりであった。敗戦を察知していたが、それがいつかということは分からなかった。私は8月15日の「詔勅」については、その前夜に知らされた。多少の予備知識はあったが、現実に「玉音放送」を聞いた時は胸にこたえるものがあった。
 新聞記者というものは、あらゆる事件にドライに対処するように訓練されているものだが、この時ばかりは編集局にもすすり泣きの声が流れた。しかし、午後には、次に来る事態にどう対応すべきかの検討が始まった。日本軍の武装解除、解体、進駐軍の上陸、それらの報道をどうすべきか・・。
私は翌日すなわち8月16日、考えるところあって辞表を提出した。自分が戦場に送り出した従軍記者のうちからも戦死者が出ていた。それに対する責任をとりたいという気持ちもあったし、新しい日本のために、少年時代から目標であった政治の道に第一歩を踏み出すことにハラを決めたのだった。

3.日本航空ハイジャック事件
昭和45年(1970)に起こったこの事件は、私が運輸大臣の時であった。この時は山村新治郎君(運輸政務次官)とともに韓国の金浦空港に飛び、現地で総指揮に当たった。出発に際し、佐藤栄作総理と会い「いっさいを私に任せる」という了解を得て渡韓した。しかし、指揮といっても外国でのことなので、直接表立った行動はとれない。
 私の第一の任務は、人質となった多数の人命をいかにして救出するかであったから、私は犯人たちの興奮状態をどうやって鎮めるかに意を用いた。そこで山村君に「構わんから、できるだけご馳走を作って、うまいものをうんと食わせろ。アルコール以外は何でも差し入れてやれ」と指示した。そうして連日連夜の休みない説得を控えめにして、犯人に休養を与えるようにした。うまいものをたらふく食わせて、睡眠を与えれば、殺気立った気持ちも落ち着くだろう。国内では「橋本は何をしておるか」と非難ごうごうであったが、今でこそユーモア交じりで語れるが、実際には重大な覚悟を決めての指揮だった。私の素朴な懐柔戦法と山村次官の勇気ある行動もあって無事解決した。朴大統領以下、お世話になった人々に今も感謝している。

橋本 登美三郎
はしもと とみさぶろう
Tomisaburō Hashimoto.jpg
1962年10月18日、ホワイトハウスにて
生年月日 1901年3月5日
出生地 日本の旗 日本 茨城県行方郡潮来町(現、潮来市
没年月日 (1990-01-19) 1990年1月19日(88歳没)
出身校 早稲田大学政治経済学部卒業
前職 朝日新聞社社員
所属政党民主自由党→)
自由党→)
(無所属→)
自由民主党

日本の旗 第39代 運輸大臣
選挙区 第3次佐藤内閣
在任期間 1970年1月14日 - 1971年7月5日

日本の旗 第27-28代 内閣官房長官
内閣 第1次佐藤内閣
第1次佐藤内閣第1次改造内閣
在任期間 1964年11月9日 - 1966年8月1日

内閣 第1次佐藤内閣第2次改造内閣
在任期間 1966年8月1日 - 1966年12月3日

内閣 第1次池田内閣
在任期間 1960年7月19日 - 1960年12月8日

選挙区 茨城県第1区
当選回数 12回
在任期間 1949年1月24日 - 1980年5月19日

その他の職歴
Liberal Democratic Party (Japan) Emblem.jpg 第15代 自由民主党幹事長
(総裁: 田中角栄
1972年7月 - 1974年11月
Liberal Democratic Party (Japan) Emblem.jpg 第14代 自由民主党総務会長
(総裁:佐藤栄作
1967年 - 1968年
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橋本 登美三郎(はしもと とみさぶろう、1901年3月5日 - 1990年1月19日[1])は、日本政治家衆議院議員自由民主党幹事長建設大臣運輸大臣などを務めた。勲一等旭日大綬章受章。

  1. ^ 橋本 登美三郎(ハシモト トミサブロウ)とは”. コトバンク. 2020年1月1日閲覧。
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