横川竟 よこがわ きわむ

サービス

掲載時肩書すかいらーく創業者
掲載期間2018/09/01〜2018/09/30
出身地長野県
生年月日1937/11/01
掲載回数
執筆時年齢80 歳
最終学歴
中学校
学歴その他
入社築地店
配偶者
主な仕事15歳で上京、兄弟4人で独立、ひばり、ジョナサン、藍屋、バーミヤン、ガスト、グループ共同仕入、MBO,きわむ元気塾、高倉町珈琲
恩師母の妹
人脈飯田亮、ベガサス会、吉野家松田瑞穂、伊藤雅俊、江頭匡一、鳥羽博道、
備考
論評

明治時代の事業創業者の執念を思い出させるような事業者魂の持ち主だった。すかいらーくの創業者は茅野亮氏とばかり思っていたので、この「履歴書」を読み、この人が一番苦労した人だなと納得した。この「履歴書」に登場した外食チエーンの関係者は、ロイヤルの江頭匡一氏(99.5)、デニーズの伊藤雅俊氏(03.4)、ドトールコーヒーの鳥羽博道氏(09.2)、吉野家の安部修仁氏(16.9)に次いで5人目である。チェーンストア経営研究団体ペガサスクラブの渥美俊一氏に指導を受けたのが共通している。

氏は中学卒業後15歳で上京、築地の個人店で料理担当となり調理の基礎を学ぶ。その後兄弟4人で独立し、そのとき「奥さんは働かせない、子供は会社に入れない、給料は4等分。守れない場合は出資したお金を放棄し、会社を出ていく。重要なことは兄弟によるオーナー会議で決める」というルールを作った。すかいらーく創業時の役割分担は、長兄の端が人事・採用、次兄の亮が財務、3男の竟が食材の手配・厨房設計、末弟の紀夫が店づくりのうまい業態開発となった。そして事業は順調に成長し日本一の店舗数となり、店頭公開にこぎつけた。 しかし、仕入先の倒産の責任を取らされたため、新業態のジョナサンに移り経営責任者となり、都心型のレストランを指向し成功する。

しかしこの後も、氏はすかいらーくの業績低迷への肩入れで回復させると、今度はジョナサンの業績回復に回るなど、両会社の経営に主導的役割を果たした。ところが、1991年に起きたバブルの崩壊と4兄弟の個人投資(ゴルフ場、ウナギ養殖、ホテルなど)の失敗でグループ会社がこの債務を引き取ることなった。企業の余力は残っていたので、藍屋、バーミヤン、ガストなど新業態を開発して次々と開店させた。特に低価格帯のガストは「すかいらーくの再生の柱になる」と考えられた。しかしスカイラークはBSEをきっかけに業績が低迷、MBOを仕掛けて再生を目指すが途中で銀行団や野村證券から横やりが入り、再上場までの期間短縮を要求される。資金を集めて当初の計画を実行しようとするが力つき解任された。最後の章で、「僕たちは上場した頃から道を誤った。いい店である前に、「優良企業」になってしまった。会社というのは大きくなると壊れる。だからある時点でいったん足を止めないといけない。外食人生50年。経営って難しいというのが率直な感想だ」と述懐している。現在80歳、きわむ元気塾を主宰し、高倉町珈琲を立ち上げ、現役を続けているのは素晴らしい。

「私の履歴書」では、カシオ計算機を設立したカシオ4兄弟が有名である。長男の樫尾忠雄氏が1991年8月に登場した。4人はそれぞれに性格が違い得意分野を持ち、長男忠雄氏が財務、次男俊雄氏が開発、三男和雄氏が営業、末の幸雄氏が生産と役割を分担した。そして順番に社長を務めたが、今年27年ぶりに三男和雄氏の長男が4兄弟以外からの就任となった。

横川 竟(よこかわ きわむ、1937年11月1日 - )は日本実業家。きわむ元気塾会長。高倉町珈琲会長。

すかいらーく創業者の一人であり、同社の元代表取締役会長兼社長兼最高経営責任者や、日本フードサービス協会会長を務めた。

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