棟方志功 むなかた しこう

芸術

掲載時肩書版画家
掲載期間1974/09/17〜1974/10/15
出身地青森県
生年月日1903/09/05
掲載回数29 回
執筆時年齢71 歳
最終学歴
小学校
学歴その他
入社家鍛冶屋
配偶者千哉子
主な仕事裁判所給仕、ゴッホに驚嘆、読書会、21 歳上京、7年後帝展入選、版画、能舞、
恩師・恩人浜田庄司 、柳宗悦、
人脈河井寛次郎、大原孫三郎・総一郎、 欧米旅行、富本憲吉、五島昇
備考15人兄弟 3男坊
論評

1903年(明治36年)9月5日 – 1975年(昭和50年)9月13日)は青森県に生まれ。板画家。20世紀の美術を代表する世界的巨匠の一人。川上澄生の版画「初夏の風」を見た感激で、版画家になることを決意。1942年(昭和17年)以降、彼は版画を「板画」と称し、木版の特徴を生かした作品を作り続けた。

1.裁判所の給仕に
陰ひなたなくよく働きましが、ただわたくしは目が悪いので小さなゴミなどが見えず掃除の事で困りました。わたくしは朝は4時半に起きて出所しました。小使い部屋から火種をもらい、火を熾して大きなヤカンをかけ、麦茶がチンチンと沸き立つまでに掃除を済ませ、一通り終わると、火を小さくして絵具を提げて出かけました。一里(4キロ)ほど離れた合浦公園地です。公園で写生する時、描き出す前に必ず景色に向かって一礼しました。終わった後も、ありがとうございましたと礼をすることにしていました。そこで一枚か二枚描いても、帰るとまだ7時ごろで、先生や事務員たちの出所には十分間に合いました。

2.帝展の入選
上野の森の夜空に帝展入選のわたくしの名前が読み上げられた時、わたくしは思わず腰が抜けた有様でした。ヘタヘタ座り込んで、心の中で父母の名を呼び続けました。父はわたくしが上京した翌年、死んでいました。心の中で父母に入選を報告し、あの書道美術館の女神にお礼を言いました。「女神様、先生様、おかげで入選しました。ありがとうございました。そして新聞記者の質問攻めもそこそこで切り上げて、その日の夜行列車に飛び乗りました。
 青森駅に着くと、真っすぐ先祖の墓に寄りました。墓に抱き着いて、「至らぬ不幸ものでした」と父母にお詫びをしました。ドッと涙があふれ、体中の力がいっぺんに薄くなりました。

3.版画→板画
梅原龍三郎先生の国画創作協会の展覧会で、川上澄生氏の「初夏の風」という版画を見ました。わたくしは、呆然と見とれました。「ああ、いいなぁ、いいなぁ」と心と体も伸びていくような気持ちになっていました。
 わたくしはゴッホのことを考えた直後、どうしても版画をやってみたくなり、郷里の先輩・下沢木鉢郎氏に「これから版画をやるから教えてくれ」と頼みました。下沢氏は気軽に「見ていればいいよ」と言ってくれましたが、彫り方などは教えようとはしません。ただ、「版画というものは、彫るよりも摺るのが大切だ」とだけ言いました。なるほど、そうなのです。わたくしは50年も板画をやっていますが、摺るのが大切です。
 黒々に摺ればいいというものではない。印刷ではないのだから、人間の魂が紙に乗り移らなければ、摺るとは言えないのです。板画は呼吸しているのだから、墨の密度の中に息づきがないとだめなのです。妙(たい:白)と黛(たい:黒)の呼吸なのです。わたくしはそれを板画の命伏(いのちぶせ)と言っています。

4.千哉子夫人
内助の千哉子夫人は、貧乏画家を支え4人の子供を育てあげても表には出ない。しかし、晩年氏が、彼女に「ナニ宗教なの」と訊いたら、「判らないのネ、パパ宗教」といいましたと書いています。ほんとにすばらしい奥様です。この人が居てこの棟方氏が世界的な仕事をした感じです。
また、朴訥な真実一路の人柄に惚れて、濱田庄司、柳宗悦、河井寛次郎、大原孫三郎・総一郎らが影に日向に支援をしてくれ、板画を世界に大きく羽ばたかせた感じでした。

棟方志功
Shikō Munakata.jpg
生誕1903年9月5日
日本の旗 日本青森県青森市
死没 (1975-09-13) 1975年9月13日(72歳没)
日本の旗 日本東京都
国籍日本の旗 日本
著名な実績油絵木版画・板画
受賞ヴェネツィア・ビエンナーレ国際版画大賞(1956年)
第11回毎日芸術賞(1969年)
選出 日本版画協会

棟方 志功(むなかた しこう、1903年明治36年)9月5日 - 1975年昭和50年)9月13日)は、日本板画家従三位

青森県出身。川上澄生の版画「初夏の風」を見た感激で、版画家になることを決意[1]1942年(昭和17年)以降、彼は版画を「板画」と称し、木版の特徴を生かした作品を一貫して作り続けた。

  1. ^ 土方明司「川上澄生「初夏の風」 - 詩魂の画家十選1」『日経新聞』2015年2月16日付朝刊。
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