掲載時肩書 | 海外経済協力基金総裁 |
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掲載期間 | 1963/11/08〜1963/12/06 |
出身地 | 栃木県 |
生年月日 | 1893/09/02 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 70 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 一高 |
入社 | 日本銀行 |
配偶者 | 見合銀行娘(池田謙三仲人) |
主な仕事 | ロンドン、国際決済BK,日銀理事、正金副頭取、日銀副総裁、パージ、日航社長、海外経済協力基金 |
恩師・恩人 | 岡田虎二郎(静座師)、井上準之助 |
人脈 | 諸井貫一(いとこ)中学(星野直樹、市川猿翁、町村金吾)一高(高杉晋一、芥川龍之介、久米正雄、菊池寛)、新木栄吉 |
備考 | 俳句、長唄、書 |
1893年(明治26年)9月2日 – 1993年(平成5年)11月18日)は栃木県生まれ。実業家。日本銀行へ入行する。1942年(昭和17年)5月に日銀理事となり、1945年(昭和20年)10月に日銀副総裁に就任。しかし、国の外資事業の責任者であったことから、1946年(昭和21年)6月に公職追放を受け、日銀を去る。1951年(昭和26年)追放解除後、藤山愛一郎の推挽を受けて同年8月1日に日本航空社長に就任。
1.精神面の段階的向上
私は人格とか品性についておぼろげにも分かってきたのは岡田虎二郎先生の静坐のお蔭である。人には固有の人格があって尊重するとともに、高めていかねばならぬ。聖胎長養という言葉があるが、人には与えられた仏性とか霊性に目覚め、長い間かかって大きく深くしていかねばならないのである。会社に平社員から課長、部長、取締役、社長、さらに会長という段階があり、官庁にも局長、次官、あるいは民間の重役にと、社会的段階があると同様に、見落としてならないのは精神面にも段階があるということである。
人間はこの段階を一つ一つ上り進んでいかねばならない。私は中学時代に精神修養の下地を作り、一高時代に禅を習って素地を固め、第三に岡田先生に会って静坐を知った。もし、岡田先生によって一大変革がなかったら、果たして無事大学を終えて日銀に入行できたかどうかと思っている。
2.戦争終結も語り合う
昭和17年(1942)5月に私は日銀理事になっていた。終戦末期には、米軍のB29による偵察飛行があり、爆撃も始まった。このころ重光葵外相の希望で一夜加納久朗君、石橋湛山氏とともにたぶん外務次官官邸だったと思うが、ほの暗い灯火管制の下で会食をしたことがある。この戦争をどう終結させるかという重光さんの質問に、加納君は「こうなったら無条件降伏以外にない」と言った。重光さんは「無条件というのは大変なことだな」と心配されたが石橋さんも私も同意見であった。
当時また吉田茂さんに呼ばれ平河町のお宅に伺ったことがある。やはり同じような質問をされ、財界はどう考えているかと聞かれた。おそらく吉田さんはすでに平和締結、終戦の考えをめぐらしていたのだろう。その後まもなく、憲兵につかまった。これは後日談だが、戦後吉田さんが内閣をつくったころ、食物が足りなくなって8千万人の国民と海外7百万人の同胞の生活をどうして保持するか考え、本当に眠られぬ夜が幾日も続いたということを吉田さんから聞いた。外観はなかなか豪快でウィットのある人だが、その反面いかに国家のことを真剣に考えていたかを物語る一例として強い感銘を受けたのであった。
終戦と同時に戦後通貨対策委員会、金融制度調査委員会、簡易生命保険および郵便年金積立運用員会などの副委員長や委員になり、いずれも戦後の金融制度をどうすべきかでインフレ退治にあたった。
3.日本航空初代社長に
昭和26年(1951)追放解除となった。たまたま日本航空会社の誕生に当たり、一万田日銀総裁、藤山愛一郎氏の勧めで社長に就任、藤山会長・松尾静麿専務のメンバーで発足した。銀座の現在日航ホテルのある所に創立準備店を持ち、重役室は畳敷きのお粗末なものであった。開業したのは26年8月1日。その前日、丸の内の工業俱楽部で創立総会が開かれた。店開きした当日の本社社員はわずか30人ほどしかいなかったが、私がまず第一に強調したのは和の精神である。論語の「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」という言葉を引用しての話だった。在任10年の間、ありとあらゆる場合に終始「和の精神」を説いたので、社員が「また社長の和の精神か」というほどだった。
この新会社には社是、社風がない。そこで私は毎月、その月生まれの若い社員を勤務時間後に社長室に集めて2時間ほど懇談する方法をとり、その席上、心の持ち方といったものをよく話した。また人間として趣味を持つべきことを奨励したのであった。
やなぎた せいじろう 柳田 誠二郎 | |
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出典:『アサヒグラフ』1953年1月21日号 | |
生誕 | 1893年9月2日 日本 栃木県足利町(現足利市) |
死没 | 1993年11月18日(100歳没) 日本 東京都渋谷区 |
別名 | 諸井 誠二郎(1905年 - 1926年) |
出身校 | 東京帝国大学経済学部[注釈 1] |
職業 | 銀行家、実業家 日本銀行副総裁 日本航空社長 海外経済協力基金総裁 |
代表作 | 『中央銀行金融政策論』(1949年) 『岡田式静坐のすすめ』(1983年) |
影響を受けたもの | 岡田虎二郎 |
肩書き | 日本航空協会会長 |
任期 | 1973年 - 1981年 |
宗教 | 仏教(禅宗[1]) |
受賞 | 藍綬褒章(1961年) 勲一等瑞宝章(1966年) 航空亀齢賞(1982年) |
柳田 誠二郎(やなぎた せいじろう、1893年〈明治26年〉9月2日[2] - 1993年〈平成5年〉11月18日[3][4])は、日本の実業家。日本航空初代社長を務めた。
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