松田昌士 まつだ まさたけ

交通(陸海・海運)

掲載時肩書JR東日本相談役
掲載期間2008/11/01〜2008/11/30
出身地北海道
生年月日1936/01/09
掲載回数29 回
執筆時年齢72 歳
最終学歴
北海道大学
学歴その他札幌北 北大大学院法学研究科修了
入社国鉄
配偶者ユネスコ友
主な仕事名古屋、本社審議室、経企出向、運輸省出向、鉄道病院改革、国鉄改革、札幌左遷、民営化、道路公団民営化、ツーリズム産業、アートセンター小劇場
恩師・恩人石川達二郎、三塚博、後藤田正晴
人脈星野進保、改革3人組(井手、葛西)、中曽根康弘、橋本龍太郎、後藤田正晴、山下俊彦、小島直紀
備考父札幌駅長
論評

1936年1月9日 – 2020年5月19日は北海道北見市生まれ。実業家、会社経営者。東日本旅客鉄道(JR東日本)社長、同社会長を歴任。。井手正敬、葛西敬之と共に「国鉄改革3人組」の筆頭として、国鉄分割民営化に尽力した。民営化後は、JR東日本の社長・会長として経営を把握。また、道路関係四公団民営化に委員として参画する等、当時の内閣総理大臣・小泉純一郎が主導した聖域なき構造改革路線において、民営化の代表的な成功例の立役者の一人とされた。

1.国鉄の本社審議室に
1962年、1年半の名古屋勤務を終え、本社行きの辞令を拝命した。肩書は本社審議室の課員である。当時は、機械系、土木系、そして事務系であり、国鉄組織はそれぞれの専門分野に合わせて、縦系統の統治を伝統としていた。弊害は言わずと知れた過剰な縦割り意識を生み出すことである。結果、どの系統も了見の狭いムラ意識に凝り固まり、広く遠い目で「国鉄のため」と考えることができなくなる。先回りして言えば国鉄がダメになった理由の一つは風通しの良い組織風土が育たなかったこともあると思う。
 そんな国鉄本社において、審議室は当時の民間企業でも珍しいブレーン集団、いわば参謀本部の様な位置づけだ。といっても、当時の本社審議室は40人のチーム。ブレーン集団といえば聞こえはいいが、別の言い方をすれば「何でも屋」の集まり。唯一の特権はトップの総裁に直接会えることぐらいだった。

2.改革3人組の隠密行動
1981年の暮れ、その日は朝から冷たい雨が降っていた。私は2年次上の井手正敬氏、2年次下の葛西敬之氏とともに自民党の交通部会長、三塚博氏を密かに訪ねた。三塚氏の地元である仙台鉄道管理局に勤務経験を持つ葛西君の縁で実現した朝食会で、我々は国鉄が抱える内情をつぶさに説明した。だが、三塚氏もすぐには信用しない。「国鉄経営陣による説明内容と全然違う」というのである。
 当時、国鉄を巡っては80年11月に「日本国有鉄道経営再建促進特別措置法」が難産の末に成立。翌81年5月に運輸大臣が再建計画に承認を与えたばかりだった。当然、政府と与党・自民党の大勢もこうした流れを支持したので、三塚氏も例外ではなかった。
 国鉄を再生するには抜本的な改革が不可欠と確信していた私は、同じ問題意識を持つ井手、葛西の両氏と定期的に会合を重ねるようになっていた。「とにかく現経営陣のいうような糊塗策ではダメだ」。3人の意志は固く、それぞれ上下の年次にも問題意識を広め、「同志」を増やしていくことを申し合わせた。
 「ここは先入観のない人に聞いてもらった方がいい」と3人の意見は一致し、葛西君が三塚氏を説得した。私は職員局能力開発課長として200以上の職場を見た結果を説明し、「何とかしないと国鉄は潰れます」と必死に訴えた。追い風も吹こうとしていた。「土光臨調」の名で親しまれ、国民の間でも支持が高かった臨時行政調査会(第二臨調)の第四部会では国鉄が出したばかりの経営再建計画に厳しい意見が相次いだ。
 後に国鉄再建監理委員会の主要委員として国鉄分割・民営化の青写真を描いた加藤寛慶応大学教授、民営化後、東日本旅客鉄道の初代社長となる住田正二前運輸事務次官である。彼らが顔を揃えた第四部会は再建計画の最終版、即ち「国鉄の改善計画」に事実上の「ダメ出し」をしたのである。
 こんなことがあり三塚氏も次第に真剣に耳を傾けるようになっていった。井手、松田、葛西の3人を中心とした改革派は随時、三塚氏に国鉄の現状を詳細に説明した。経営陣の目を盗む完全な「隠密行動」だった。82年2月、我々の執念が実り、自民党は「国鉄再建小委員会」の設立に踏み切る。翌83年2月、私は本社経営計画室の計画主幹となり、本格的に再建計画つくりに取り組む場所を得た。

3.北海道に左遷
経営計画室に異動して2年後の1985年初春、「松田が飛ばされるらしい」噂が社内を駆け巡った。遂にその日が来た。受けたのは「北海道総局勤務を命ず」という内命だった。当時、経営陣で唯一、改革派の理解者として支援していただいた竹内哲夫常務理事が左遷話を聞きつけ、2年後輩の大森義弘北海道総局長に相談。「このままでは松田が潰される。そちらで引き受けてくれ」と根回ししてくれていたらしい。
 だが、発令直後はそんな事情を知る由もない。東京・丸の内国鉄本社に近いパレスホテルのバーで午後10時過ぎ、部下の北川博昭君と酒を飲みながら「これで終わった」とつぶやいた。翌朝たたきつける予定の辞表を胸に忍ばせ、同志の井手正敬氏に電話をかけた。「明日、辞表を出す」というと、即座に駆け付け「早まるな。辞めないで改革に向けて皆で頑張ろう」と言う。三塚代議士の第一秘書だった庄司格氏も交えた必死の説得を受けて考えを変え、故郷・北海道へと戻る決意を固めた。

追悼

氏は‘20年5月19日に84歳で亡くなった。この「履歴書」に登場したのは’08年11月、72歳のときでした。氏の功績からすれば当然かもしれませんが、国鉄民営化後の最初の「私の履歴書」登場でした。氏の豪胆さ、気骨の人を証明するエピソードを2例、紹介します。

1.国鉄面接試験:面接官から、「洞爺丸事件をどう思うか」と問われた。当時、国鉄は台風で沈没した青函連絡船・洞爺丸の事故補償を巡り係争の真っ最中だった。氏は「当然、国鉄責任がある」と答え、面接官全員と論争になった。氏は、当時米国で成立していた原子力法に触れ、「無過失責任」という法概念を説明し、「天下の大国鉄が近代民法の基礎も知らないのか」と啖呵を切ったと書いている。しかし、採用通知をもらい、「失礼な発言をした自分を採用する面白い会社」として入社する。

2.鉄道病院改革:国鉄末期には累積債務が25兆円まで膨れ上がっていた。赤字幅削減の一つとして病院改革を推進した。半数以上の病院閉鎖、これに伴う合理化で、医師、看護師など1千人規模のリストラ案となった。国会でこのリストラ案の説明と答弁を役員が尻込みするため、氏が代替した。国会での答弁には厚生省の医務局長と二人でおこなったが、医学博士の医務局長が「あなたの答弁はすばらしいものでした。医学のご専門は?」と訊かれて、「屋台骨の大手術が必要な国鉄ですから、専門は外科です」と即答。後で上司に叱られたとか・・

3.国鉄最後の日
新会社に移行する翌日零時からの詳しい描写は、2015年10月掲載の、葛西敬之氏(JR東海)の欄で紹介しましたが、ここでも再掲します。
「再出発」
31万人の従業員を約10万人削減し21.5万人に縮小して再出発となったJR各社だったが、その再出発日を松田は次のように書いている。 「やがて国鉄最後の日が終わり、日付が変わった午前零時。丸の内の本社からも汐留から鳴り響く汽笛が聞こえてきた。全国の鉄道管理局から報告があがり、十数項目の移行準備手続きが完了したことを確認すると、ようやく安堵の息を吐いた。このころになってようやく50人程度の職員と共に経営計画室の部屋でささやかな夕餉を開いた。時計の針が午前三時を指しても部屋のそこかしこでは歓喜、感涙の声が絶えなかった。だが、我々に残された時間は多くはない。あと一時間もすれば新生・JR東日本が送り出す、緑色のコーポレートカラーに染められた始発列車が静かに「その時」を待っていた」。

 国鉄改革が終わり10年ほどたったとき、氏は思い切って当時の権力者・中曽根康弘元首相に「なぜ私が東日本に決まったのでしょうか」と訊ねた。そのとき、中曽根さんは苦笑しながら、こう答えたという。「松田君、君なら会社の枠にとらわれることなく鉄道を再生できるだろう。それで2,3年経って駄目だったら、『やっぱり無理だったのか』で皆が納得するだろう」だった。
 社長在任は7年。三羽ガラスの井手、葛西両氏が「労務屋」と言われ、労組対策などを得意としていたのに比べ、氏は企画畑が長かったために労務問題は経験不足だった。しかし左遷など冷遇にも屈せず信念を貫いた立派な人物だった。

松田 昌士(まつだ まさたけ、1936年1月9日 - 2020年5月19日[1])は日本の実業家、会社経営者。従三位東日本旅客鉄道(JR東日本)社長、同社会長を歴任。北海道北見市出身。

井手正敬葛西敬之と共に「国鉄改革3人組」と称され、日本国有鉄道(国鉄)の分割民営化に尽力した。北海道大学名誉博士

  1. ^ 元JR東日本社長の松田昌士氏が死去”. 共同通信. 2020年5月25日閲覧。
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