掲載時肩書 | 衆議院議員・東海大総長 |
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掲載期間 | 1967/08/26〜1967/09/24 |
出身地 | 熊本県 |
生年月日 | 1901/10/24 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 66 歳 |
最終学歴 | 東北大学 |
学歴その他 | 熊本工業高校 |
入社 | 逓信省 |
配偶者 | 医師娘 |
主な仕事 | 教育研究会、長崎郵便局、ドイツ留学、ケーブル(東京ーハルピン3千km)、逓信院総裁、望星学塾、東海大学 |
恩師・恩人 | 抜山平一教授、内村鑑三、浜田成徳 |
人脈 | 八木秀次教授、篠原登、梶井剛、米沢滋・小林宏治(塾門弟)、山田勝四郎 |
備考 | 北海道松前・父の実兄、高松宮の猪苗代湖別邸を英世学園 |
1901年(明治34年)10月24日 – 1991年(平成3年)8月25日)は熊本県生まれ。官僚・政治家・科学者・教育者・工学博士で、東海大学創立者である。内村鑑三に師事した。逓信省に技官として入省し、無装荷ケーブルなどを発明して通信技術の進歩に貢献した。1937年(昭和12年)11月に「無装荷ケーブルによる長距離通信方式の研究」により東北帝国大学工学博士を授かる。日本社会党衆議院議員で、ソビエト連邦との交流促進に尽力した。戦後すぐに、逓信院総裁(戦前の逓信大臣、のちの郵政大臣)を歴任。
1.内村鑑三先生の聖書研究会が人生を決める
大正14年(1925)に東北大学を卒業して、逓信省に入った。役所は砂漠のように味気ないところだった。人生問題など指導してくれる人は誰もいなかった。同じ下宿の小学校の先生が、新宿・柏木にある内村鑑三先生の聖書研究会を紹介してくださった。
内村先生の聖書講義は、普通の教会ならイエス・キリストがどうのこうのという話だけで終わるのが常だが、先生の話はそんな狭い視野のものではない。神を論じ、宇宙を論じ、歴史、科学を語るその言葉は、真に該博な先生の知識とスピリットからほとばしるものだった。私は惹きつけられ、そして打たれた。台風に打ちひしがれた稲穂のように、私の心の中にあった一切のけち臭い自己保存の意識は、あとかたもなく叩きのめされた。いままでの心配や悩み事は、帰りにはすっかり拭われて晴れ晴れとした気持ちになるという日曜日が続いて、先生の血となり肉となっていった。
その頃の南原繁、矢内原忠雄、塚本虎二、藤井武といった人々が熱心に通っていた。先生から受けたいろいろな感化は、思想的、宗教的にも、また教育、政治の面においても、すべて私の土台となり、生命力になったと信じている。
2.大陸から東京への初通話で我が子を救う
左遷されていた長崎郵便局から本省に戻って来たものの、仕事は与えられないまま、東北大学の抜山平一博士の研究になる増幅濾波器の研究をしていた。そしてこれに検波作用を持たせることを発見して増幅濾波検波器の研究を完成した。私はこれを朝鮮海峡の古い海底電信線に利用して、古い海底電信ケーブルで音声周波の多重電信をやり、日本と朝鮮とを電話でつなぐことにも成功した。
古い原始的なケーブルではあったが増幅器を入れて通話すると、音色が明瞭で相手の言葉がはっきり聞き取れるばかりでなく、肉声に近いものが聞こえる。ドイツ・ピューピン博士の装荷方式よりもはるかに通話の音色が優れているという事実を私たちは確認することができた。私の発明した無装荷ケーブルに対する自信はいよいよ深まった。この時まだ完全ではなかったが、東京とは連絡がつき、次男の重病診断を伝える妻に、信頼する医師への再診を指示することができ、窮地を脱したことは、本当にうれしかった。
3.青年道場「望星学塾」を開設する
私は篠原登氏とともに「無装荷ケーブルによる長距離通信方式の研究」を上梓した。昭和11年(1936)、私はこの研究によって電気学会から表彰され、浅野奨学祝金(千円)が贈られた。この奨学金を記念するために、デンマーク国民高等学校にならって青年道場「望星学塾」をつくった。学生が8人ぐらい寝泊まりできる寄宿舎と、体育館兼講堂兼図書館ができあがった。ここで日曜ごとにキリスト教の礼拝をおこない、週2回にはデンマーク体操、月に一度はかならず公開講演会を開いた。旧制一高の三谷隆正先生が近くに住んでおられたので、講師をしばしばお願いしたものである。
少数ではあったが、熱心な青年が集まって真剣な集会を続けた。この中から東海大学副理事長で親友の篠原登氏、現電電公社総裁の米沢滋氏、日本電気社長小林宏治氏らをはじめ、教育界、官界、財界で現在相当の地位にあって活躍している人々を出した。学位をとった人も30数人いる。
松前 重義 まつまえ しげよし | |
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逓信省工務局長時代 | |
生年月日 | 1901年10月24日 |
出生地 | 日本 熊本県上益城郡嘉島町(旧・大島村) |
没年月日 | 1991年8月25日(89歳没) |
出身校 | 熊本高等工業学校 東北帝国大学 |
前職 | 逓信省官僚(工務局長)・逓信院総裁 国際柔道連盟会長 東海大学創立者・理事長・総長 日本対外文化協会会長 |
所属政党 | 日本社会党(右派) |
称号 | 正三位 勲一等旭日大綬章(1982年昇叙) 勲一等瑞宝章(1971年) 工学博士(東北帝国大学) |
子女 | 長男・松前達郎(元参議院議員) 次男・松前紀男(元東海大学学長) 三男・松前仰(元衆議院議員) 孫・松前義昭(東海大学理事長兼学長) |
選挙区 | 旧熊本1区 |
当選回数 | 6回 |
在任期間 | 1952年10月1日 - 1963年10月23日 1967年1月29日 - 1969年12月2日 |
松前 重義(まつまえ しげよし、1901年(明治34年)10月24日 - 1991年(平成3年)8月25日)は、日本の逓信官僚、政治家、工学者、教育者。学位は工学博士(東北帝国大学・1937年)。熊本県出身。東海大学創立者。内村鑑三を師とするクリスチャン[1]。
戦前は逓信官僚として新体制運動に加わり大政翼賛会総務部長、戦後は逓信院総裁(逓信大臣・郵政大臣相当)、社会党右派の衆議院議員を務め、ソ連との友好親善に尽力した。静岡市名誉市民[2]。
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