小林宏治 こばやし こうじ

電機

掲載時肩書日本電気会長
掲載期間1987/11/01〜1987/11/30
出身地山梨県
生年月日1907/02/17
掲載回数29 回
執筆時年齢80 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他松本
入社日本電気 (W・エレクトリック54%子会社)
配偶者野田学長娘(松前重義仲人)
主な仕事電力線搬送電話装置・博士号、M波、生産管理、ZD活動、台湾、世界的事業展開(インドなど合弁、144国商売、21か国現地法人45社)
恩師・恩人渡辺斌衡社長
人脈桑原幹根、井上薫(松本)、野口遵、松前重義、内ケ崎贇五郎、梶井剛、佐々部晩穂
備考5男四女・四男、C&C教祖
論評

1907年2月17日 – 1996年11月30日)は山梨県生まれ。実業家。元日本電気(NEC)社長、会長。小林が社長の時代に、NECは通信とコンピュータ、半導体を主軸とした総合電器メーカーへと発展し、「NEC中興の祖」と呼ばれた。1974年日本インダストリアル・エンジニアリング協会会長に就任。1977年、米国・アトランタで開催された「インテルコム’77」において、コンピュータと通信の融合をうたった「C&C」(Computer & Communication)の理念を提唱。「C&C」はその後NECの企業スローガンとして用いられるようになる。1986年、NECがスポンサーとなりIEEE小林宏治コンピュータ&コミュニケーション賞が創設された。

1.日本の電話事情(昭和12年当時)
昭和12年(1937)12月、外国を視察してくるようにとの社命で横浜を出港、米国へ向かった。ニューヨークでベル研究所の訪問と電話局の見学が強く印象に残っている。電話局の女性監督が自信に満ちた顔で「私たちは国内のどことでも3分以内に電話を接続します」と言った。私は本当に驚いた。
 当時の日本の電話は電話になっていなかった。東京・三田の本社と私のいた川崎市の工場の間は自動車で1時間、電車で2時間。電話は何と半日かかる状態だった。私が電話機をつくる会社に入ったのは昭和4年(1929)。戦後まで自宅に電話はなかった。入社して17年目の1946年に自宅に電話機が付いた。

2.世界初のトランジスタ・コンピュータの開発
日本電気は搬送式多重電話装置を戦前から製造していた。この装置の重要部分である沪波器を研究している若い技師・渡部君が昭和29年(1954)に、沪波器の新しい理論を考え出して学会に発表した。そして彼は、私に「この理論を実際の沪波器に適用するにはどうしても22ケタか23ケタの数値計算のコンピュータが必要です」と直訴してきた。
 その頃東京大学理学部の後藤助手(後の教授)がパラメトロン素子を発明し、これを使ったコンピュータの開発が日本電気研究所の長森君らによって進められていた。やがて、コストが安く、動作も安定している科学技術計算用のパラメトロン・コンピュータが完成した。これで炉波器設計に必要な計算ができるようになった。一方、パラメトロン式の事務用の小型コンピュータを開発し好評を博したが、演算速度が遅かった。
 トランジスタを使うコンピュータを通産省電気試験所の和田部長を訪れ、ご指導をお願いした。それで生まれたのがNEAC―2201である。製品として完成したのは昭和33年(1958)。翌34年パリで開く予定のオートマスで(国際情報処理会議)の展示会に出品することになった。一般に展示され、作動した世界初のトランジスタ・コンピュータである。

3.地方工場は独立法人に
昭和39年(1964)11月30日、私は渡辺斌衡社長の後を継いで社長となった。第一線の社員は新しい施策を待ち望んでいる。欧米の社員と違う点である。日本では自分たちの会社を良くしようという意識が強い。私は事業部制の組織を直方向性でなく水平方向に発展させようと試みた。昭和40年代以降の新工場は全国各地につくろうと考えた。全国分散計画と名付けた。
 どうせ分散するなら一番不便な所からと思い、北は岩手の一ノ関、南は鹿児島の出水、熊本に工場をつくった。汽車で6時間以上もかかる不便な場所で成功すれば、便利な所ではもっとうまくいくと考えた。鹿児島日本電気と九州日本電気は40年(1965)9月に設立した。一ノ関の東北日本電気は翌年6月だった。
 本社と地方の工場との距離があっても、日本電気がつくっている通信システムを使えば少しも問題にならない。紺屋の白袴ではいけない。メーカー自身が通信の利用模範を示すことが大事である。しかも過疎、過密対策にも寄与できる。
 地方工場は原則として独立法人にした。自主的に運用させた方が効率いい。不便な所に立地しているので、本社にちょくちょく顔を出してお伺いを立てるわけにいかない。自主性を育てるにも役立った。

4.「C&C」の教祖に
昭和52年(1977)10月、米国アトランタで国際総合通信展「インテルコム77」が開催された。アトランタのホテルで時差による眠気と闘いながら講演原稿の推敲を重ねた。私の講演時間は30分。演題は「変化する社会ニーズへの通信企業の対応」。私はこう話し始めた。「主要先進国ではコミュニケーション技術とコンピュータ技術が融合し出した。コンピュータ通信という新しい概念が定着しようとしている」。
 通信とコンピュータの融合をテーマに持ち出したのは私ぐらいだった。世間の反応ははかばかしくなかった。当時、通信とコンピュータは異なる業種と考えられていた。が、しかし私には自信があった。アトランタの講演から2月余後、私は日本電気のゲストハウスである泉華荘に役員、事業部長10数人を集めた。
 「C&Cオリエンテーション会議」の始まりである。社内体制の整備の動きは急だった。関連組織を相次いで設けた。53年のC&C委員会、55年のC&Cシステム研究所、57年のC&Cシステム推進グループ・・・。社内を固める一方、日本国内はもちろん世界各国に足を運び、私の考え方を説いた。「C&Cの教祖」とさえ言われた。講演の回数は通算50回近くに達した。

小林 宏治(こばやし こうじ、1907年2月17日 - 1996年11月30日)は、日本実業家。元日本電気(NEC)社長、会長。

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