掲載時肩書 | 社会民主党党首 |
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掲載期間 | 1996/06/01〜1996/06/30 |
出身地 | 大分県 |
生年月日 | 1924/03/03 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 72 歳 |
最終学歴 | 明治大学 |
学歴その他 | 東京市 立商業 |
入社 | 漁村青 年同盟 |
配偶者 | 看護婦長 |
主な仕事 | 社会党(23)左派、市議2、県議3、議員 (48)、国対、自社さ連立、自衛隊合憲、日の丸・国歌容認、 |
恩師・恩人 | 大島豊、穂積五一教授 |
人脈 | 真継紘一、佐藤三吾、浅沼(尊敬)、久保亘、河野洋平、橋本龍太郎、土井たか子、武村、野中広務、野坂浩賢、五十嵐広三 |
備考 | 担がれる人望、「貴不驕、賎不依」 |
1924年〈大正13年〉3月3日 – )は大分県生まれ。政治家、労働組合指導者。労働組合運動から日本社会党に所属し政治家となり、大分県大分市議会議員(2期)、大分県議会議員(3期)、衆議院議員(8期)、日本社会党委員長(第13代)、内閣総理大臣(第81代)、社会民主党党首(初代)、名誉党首等を歴任した。55年体制で社会党と対立してきた自由民主党との連立を決断して自社さ連立政権を樹立して第81代内閣総理大臣に就任し、1994年6月30日から1996年1月11日まで在任した。その後、日本社会党を解党させるとともに、新たに社会民主党を結成し、同党の党首や特別代表を務めた。人望があり担がれた。
1.政治指導者としての労働運動
労働運動は、一種の条件闘争でどこかで妥協しなければならない。しかし、闘おうという自らの力がなければ、条件闘争には持ち込めない。また、労働運動は祭りの神輿に似ている。神輿を担ぐ人たちはみな一生懸命だ。しかし、旗を振る人が、担ぎ手と同じ気持ちだったら、その神輿はどこに行ってしまうかわからない。旗を振る人は、たえず冷静になって全体を見渡し、客観的に判断しながらみなを指導していく必要がある。
私が労働運動で体験したことは、その後の政治活動に大いに役立ったような気がする。政治は闘いだ、といっても必ずどこかで折り合わなければいけない。政治指導者の在り方を含めて、労働運動を通じて「常に大衆とともに、大衆に学ぶ」ことを教えられたのである。
2.政治活動の原点
私の大分県議時代に、県は高度経済成長で大きく変貌した。昭和38年(1963)には市町村合併により新大分市が発足、39年には新産業都市の指定を受け、新日本製鉄、昭和電工などの大企業が大分鶴崎臨海工業地帯に進出し、重化学コンビナートに変わった。経済は発展したが、一方でひずみも発生した。
美しい砂浜が続く海岸線は埋め立てられ、子供は遊び場を失った。漁民は漁業権を失い、転職を迫られた。近郊の農村も変容し、男たちは勤めに、女たちもパートに出て、昼間、農村にいるのは老人という有様になった。大気汚染、海水汚染などの公害問題が表面化した。
私は、大企業中心の経済政策や合理化攻勢に反対し、勤労大衆、地域住民の生活と暮らしを守る運動に力を入れた。県に企業との公害防止協定を結ぶように求めたり、「大分自然を守る会」などの住民組織と共闘して、公害反対運動を進めた。私は、地方の人々と苦しみや喜びを分かち合いながら活動を続けてきた。この体験は国会議員活動の原点になったと思っている。
3.党政策転換の苦悩
歴史は非情である。世の中が変わると、今まで大切にしてきたことを捨てなければならない。心情的にはつらいが、政治家は決断しなければいけない。社会党の政策転換についてはいろいろな人から意見を聴いた。幾夜も眠れず、悩みぬいた。しかし、最終的に一人で決断した。所信表明演説の前の晩は「これでよいのか」と演説草稿に何度も目を通し、真っ赤になるほど筆をいれた。
平成6年(1994)7月18日の国会での所信演説と、それに続く質疑応答で、私は日米安保条約の堅持、自衛隊の合憲、日の丸・君が代の容認など、社会党の従来の主張を大きく転換する見解を表明した。
首相は、3自衛隊の長であり、自衛隊を違憲とするなら当然首相を辞めなければならない。政権を担う重みからでた決断だった。しかし、もっと別な積極的な理由もあった。冷戦の終焉によるソ連・東欧の崩壊、連立政権時代の到来など、内外の情勢変化を踏まえ、社会党は自ら政策を転換し、自己変革を図る必要があった。私が首相になった今こそその良い機会である。私は与えられた「使命」だと考えたのである。
村山 富市 むらやま とみいち | |
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生年月日 | 1924年3月3日(100歳) |
出生地 | 日本 大分県大分市 |
出身校 | 明治大学専門部政治経済科卒業 |
前職 | 大分県漁村青年同盟書記長 |
現職 | 明治大学顧問 |
所属政党 | (日本社会党→) (社会党左派→) (日本社会党→) 社会民主党 |
称号 | 陸軍軍曹 桐花大綬章 名誉博士(明治大学、崇実大学) |
配偶者 | 村山ヨシヱ (1953年 − ) |
サイン | |
第81代 内閣総理大臣 | |
内閣 | 村山内閣 村山改造内閣 |
在任期間 | 1994年6月30日 - 1996年1月11日 |
天皇 | 上皇(明仁) |
選挙区 | (旧大分1区→) 大分1区 |
当選回数 | 8回 |
在任期間 | 1972年12月10日 - 1980年5月19日 1983年12月18日 - 2000年6月2日 |
選挙区 | 大分市選挙区 |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1963年 - 1972年 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1955年 - 1963年 |
その他の職歴 | |
初代 社会民主党党首 (1996年1月19日 - 1996年9月28日) | |
第13代 日本社会党委員長 (1993年9月25日 - 1996年1月19日) |
村山 富市(むらやま とみいち、1924年〈大正13年〉3月3日 - )は、日本の政治家、労働組合指導者。第81代内閣総理大臣。勲等は桐花大綬章。
労働組合運動から日本社会党に所属し政治家となり、大分県大分市議会議員(2期)、大分県議会議員(3期)、衆議院議員(8期)、日本社会党委員長(第13代)、内閣総理大臣(第81代)、社会民主党党首(初代)、名誉党首を歴任した。
2019年(令和元年)11月29日に中曽根康弘が死去したことに伴い、令和初期に存命する内閣総理大臣経験者としては最高齢、かつ唯一の大正生まれの人物となった。2024年11月時点において、歴代の内閣総理大臣では東久邇宮稔彦王、中曽根に次いで三番目の長寿記録保持者であり、百寿(満100歳)を迎えている[1]。