掲載時肩書 | 野球解説者 |
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掲載期間 | 1997/02/01〜1997/02/28 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1925/09/17 |
掲載回数 | 27 回 |
執筆時年齢 | 72 歳 |
最終学歴 | 明治大学 |
学歴その他 | 帝京商 |
入社 | ジーゼル 自動車、 |
配偶者 | ファン娘 |
主な仕事 | 打撃投手1日(1500)、中日、監督(33歳 )、大毎、阪神、巨人、西武、 |
恩師・恩人 | 天知俊一 |
人脈 | 関根潤三、別当薫、小西得郎、米キャンプ(川上、小鶴、藤村と)、西沢道夫、児玉利一、犬丸一郎、石井好子、金田正一 |
備考 | 仲人:鈴木竜二 |
1925年9月17日 – )は東京府生まれ。元プロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者。 NPB史上初の本格的なフォークボーラーとされ、驚異的な変化の切れ味と落差を誇るフォークボールを自在に操り日本球界に絶大な影響を与えたことから「フォークボールの神様」と呼ばれている 。 史上初の沢村栄治賞3回受賞者。また、杉下にとってプロ野球生活最高の年となった1954年は、32勝・防御率1.39、273奪三振を記録して中日ドラゴンズの初優勝を飾るだけでなく、自身も最多勝、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率、最多完封を挙げ、日本プロ野球史上4人目、2リーグ分立後初となる投手五冠王に輝いた。またセ・リーグ初の最多奪三振も獲得している。
1.私のフォークボール
フォークボールは私の代名詞のようになっている。しかし意外に思うかもしれないが、フォークボールは滅多に使わなかった。ストライクゾーンからボールゾーンに落ちる球で討ち取ることに、いさぎよしとしない気持ちがあったからだ。打者をごまかしているようで、勝利投手になっても、勝った気がしないから。
「杉下さんのフォークボールは何センチ落ちるのですか」と訊かれることがある。測ったことがないから分からない、としか答えようがない。しかし、ストレートなら打者の胸元辺りを通るところを、同じ胸元を狙って投げたフォークは、40~50cmずつ3度ほどスー、スー、スーと沈み、捕手の前でバウンドする。しかも最初の落下は右斜め、次は左斜め、最後は真下になどと、その都度曲がる方向が違う。来ると分かっていても捕ることができないのが、私のフォークボールなのである。
2.投手の特権「遊び投げ」
一度目中日監督を辞めてすぐ、パ・リーグ大毎のオーナー永田雅一さんの要請があり、大毎に入った。「遊んでおれ」という永田さんの言葉もあり、どうせマウンドに立つなら中日時代にできなかったことに挑戦しようと考えた。そこで投手ゴロから始まり、一塁ゴロ、二塁ゴロ、・・・左翼フライ、中飛、右飛とポジション順に打者を討ち取ることを試みたことがあった。
当時エースだった小野正一君とベンチで「カウント0-3から打者3人をショートゴロで討ち取ってみよう」という話になったこともある。「大丈夫ですか」との小野君の心配を横目に、「こういうことができるのが投手の特権」と、私は最初の打者を0-3から遊ゴロに仕留め、二人目も遊ゴロ。しかし、3人目に捕手へのファールフライを打たれて失敗した。これには落ちがあり、「3人も続けて0-3になるとは杉下もへばったようだ」と、宇野監督に降板させられてしまったのだ。
3.巨人・川上哲治監督と西武・森祇昌監督の采配違い
V9時代の巨人・川上監督は石橋をたたいて渡ると評されたが、西武の森監督はそれ以上の手堅さだった。川上監督は投手に6点までの失点を計算していた。ON(王貞治、長嶋茂雄)で7点以上稼ぎだすからだ。ところが森監督は1点でもとれば徹底的に守り抜く野球を展開していた。
4.フォークボールとストレートは一心同体と若手指導
フォークとストレートは一心同体で、フォークを投げることによりストレートに伸びが出、ストレートによってフォークも生きてくるところがある。横浜の佐々木主浩君が今、日本では一番きれいに指の股からボールが抜ける投手ではないかと思う。今はフォークボール全盛と言われ、フォークを投げない投手はいないほどだ。しかし、教わることは簡単だが、大切なことは教わったことをどう消化するかだろう。その意味でフォークボールをものにしたのが、かっての村山実君(阪神)であり、村田兆治君、佐々木主浩君である。