本田宗一郎 ほんだ そういちろう

輸送用機器・手段

掲載時肩書本田技研工業社長
掲載期間1962/08/21〜1962/09/14
出身地静岡県浜松
生年月日1906/11/17
掲載回数25 回
執筆時年齢56 歳
最終学歴
工業高校
学歴その他浜松高工
入社アート商会(自動車修理工場)
配偶者27歳で嫁
主な仕事アート商会浜松支店暖簾分け(22歳)、東海精機(ピストンリング)、浜松高工聴講、本田技研、ドリーム号、TTグランプリ、米国、欧州進出
恩師・恩人藤沢武夫
人脈河島喜好(浜松工)、竹島弘、石田退三
備考家業:鍛冶屋、ワンパク、芸者二階から
論評

1906年(明治39年)11月17日 – 1991年(平成3年)8月5日)は静岡県生まれ。技術者。輸送用機器メーカー本田技研工業(通称:ホンダ)の創業者。会社のハンコを藤沢武夫に預け、経営もすべて任せていた。本田は社印も実印も見たことがなく、技術部門に集中し、のちに「藤沢がいなかったら会社はとっくのとうに潰れていた」と述べており、藤沢も「本田がいなければここまで会社は大きくならなかった」と述べている。互いに「西落合」(本田の自宅のある地)、「六本木」(藤沢の自宅のある地)とざっくばらんに呼び合っていた。また両者は「会社は個人の持ち物ではない」という考えをもっており身内を入社させなかった。

1.わんぱく時代
(1)小学校の裏山にスイカ畑があり、よくそこに忍び込みに行った。スイカに穴をあけ、中身だけはきれいに食べてしまい。あとは穴の方を下に伏せておいて逃げてくる戦法をとった。
(2)学校の近くに清海寺があり、昼の時間は村中がそこの鐘の音を標準にしていた。ある日、私は学校をサボって裏山に遊び歩いた結果、腹が減ってたまらない。そこで、そっとお寺に近づき鐘楼に上って、その鐘をゴーンと、正午の時報を打ち出した。私は家に飛んで帰り昼飯にありついた。
(3)学校で飼っていた赤い金魚にエナメルを塗って青い金魚にしたり、隣の石屋さんの地蔵さんの鼻が気に食わないといって、父の仕事場から金づちを持ち出して、その鼻を削り直しているうちにポロリと落とした。
校長や父親に見つかり大目玉をくった、わんぱく小僧時代であった。

2.芸者を2階から投げる
27歳のとき今の妻を女房にもらった。そのとき自分で自動車を運転して嫁さんを迎えに行った。女房の村人から「運転手さんと一緒になるの?」と女房は大変な尊敬をされた。当時車を持っている人は少なかった。その披露には、馴染の芸者衆を呼んで、お婿さんの私自身が“つるかめ”を歌いながら踊った。集まってくれた人たちはびっくりするやら、呆れかえってものも言えなかった。
 浜松では毎年5月に「たこ祭り」が行われるが、そのお祭りの日に私は友人と二人で料理屋で芸者相手に飲めや歌えやの大騒ぎをしたことがある。相当酔っぱらっていたが、そのうちに芸者がちょっと生意気なことを言った。「このなまいきやろう」と芸者を料亭の二階から外へ放り投げてしまった。その瞬間、パッと火花が飛んだ。外を見ると私の投げた芸者の体が電線に引っかかっていた。電線はショートして切れ、部屋の中もあたり真っ暗になった。私はあわてた。酔いはいっぺんに覚めて飛び降りるように外へ出た。そして電線に架かっている芸者の足を引っ張り、やっとの思いで降ろした。もし、このとき電線にひっかからずに真直ぐ下の道路に落ちておれば、芸者の命はなかったと思う。そうすれば私は刑務所生活をしていたかもしれない。そのときの芸者は、いま飲み屋の女将になっており、未だに彼女には頭が上がらない。

3.オートレースで大事故・重傷
昭和11年(1936)7月、東京・多摩川べりで開催の全日本自動車スピード大会に出場した私は、自作のレーサー(競走車)を駆ってゴール寸前、時速は120キロを超えた。そして、もう少しで優勝というとき横から修理中の自動車が出てきた。アッという間もなく接触した私の車はトンボ返りに三転した。グラッと体が大きく揺れ、視界が逆さになるのを感じた。車から跳ね飛ばされ、地面にたたきつけられた私はさらにもう一度バウンドして気を失った。(事故の瞬間、転倒する車から体が飛び出している写真掲載)
 病院のベッドで意識を回復した私は、顔中に激痛を感じた。あのサイレンを鳴らす救急車で病院に運ばれていたのだ。顔の左半面がつぶれ、左腕がつけ根からはずれて手首も折れていた。助手席に乗っていた弟はろっ骨4本を折る重傷だった。「よくまぁ二人とも助かりましたね」と看護婦はびっくりしていた。
 この時のレーサーはフォードを改造したもの、私の出した120キロのスピードは我が国の新記録だった。それで優勝こそ逸したが、特に優勝トロフィーをもらった。この記録が破られたのはつい最近のことである。しかし、私のように猛スピードでの事故でも生きているけれど、全くの命拾いだった。

4.外国進出の基本
昭和34年(1959)6月、私は輸出伸長をはかるため、ロサンゼルスに米国・ホンダモータースを設立した。50万ドルの許可が大蔵省からおりたとき日本人を連れて行く話が出た。理由は日本人の方が気心が知れて仕事がやりやすいし、給料も安くて済むというところにあった。だが私はこの話に反対した。
 米国に行って米国人並みの給料が払えないようじゃ商売はできない。それでは日本人を搾取する以外の何物でもない。日本人を連れて行ってジャパニーズ・タウンを作るのもいけない。米国に進出する以上、その土地の人を使って、かの地から喜んでもらうようにすべきだ。だからまず土地を買って建物をつくり、どっしり腰を下ろして商売に取り掛かろう。これがオーソドックスな商売成功法である。こうして現在向こうに行っている日本人はわずか5家族っきり。150人からの米人セールスを使って立派に成功している。

5.研究所は別会社に
昭和35年(1960)7月に私は本田技術研究所を独立の別会社として設立した。すべて研究というものは失敗の連続であり99%以上は失敗と覚悟しなければならない。そういうものを本田技研工業というあくまで生産オンリーで利潤を追求する会社の中に置くと、どうしてもママっ子扱いされがちになる。それでは立派な研究を続けることができないので別会社にしたのである。
 もう一つの理由は生産の流れの中に入っていると組織というものを非常に大事にするが、研究所は組織よりも個人の能力を発揮させることが大切であり、問題である。とすれば当然組織も生産会社とは違ってこなければならないからである。
 つまり研究所は本田技研の売上の3%(年間20億円)をもらってその見返りに青写真を本田技研に売る。もし研究所のミスによって技研が損をした場合には全部研究所の責任においてそれを負担する仕組みであり、博士養成をしている他の研究所とは大いに違う。

6.技術の本田社長、販売の藤沢専務
私の会社の人物評として「技術の本田、販売の藤沢」と言われるが、その藤沢武夫君との出会いは、ドリーム号の完成した昭和24年(1949)8月であった。
 私は東海精機時代はもちろん、それ以前から自分と同じ性格の人間とは組まないという信念を持っていた。自分と同じなら二人は必要ない。自分一人で十分だ。目的は一つでも、そこにたどり着く方法としては人それぞれの個性、異なった持ち味を生かしていくのが良いと思っていたからだ。
 藤沢という人間に初めて会ってみて私はこれは素晴らしいと思った。機械についてはズブの素人だが、こと販売にかけては素晴らしい腕の持ち主だ。つまり私の持っていないものを持っていると、私は確信した。
 これに関連して、常々私の感じていることは、性格の違った人とお付き合いできないようでは社会人としても値打ちが少ない人間ではないかということである。世の中には親兄弟だけで会社を経営して、自分勝手なことをするような会社があるが、人材は広く求めるべきで、親族に限ってるようではその企業の伸びは止まってしまう。本田技研の次期社長は能力のある者なら、日本人に限らず外人でも良いと思っている。

本田ほんだ宗一郎そういちろう
アサヒグラフ』1955年新春倍大号より
生誕 (1906-11-17) 1906年11月17日
日本の旗 日本 静岡県磐田郡光明村(後の天竜市、現在の浜松市天竜区
死没 (1991-08-05) 1991年8月5日(84歳没)
日本の旗 日本 東京都文京区順天堂大学医学部附属順天堂医院[1]
国籍 日本の旗 日本
教育 二俣尋常高等小学校
配偶者 本田さち
子供
業績
成果 本田技研工業の創業者
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本田 宗一郎ほんだ そういちろう1906年明治39年〉11月17日 - 1991年平成3年〉8月5日)は、日本実業家技術者。輸送用機器メーカー本田技研工業(通称:ホンダ)の創業者。位階正三位

  1. ^ 史上初の大調査 著名人100人が最後に頼った病院 あなたの病院選びは間違っていませんか”. 現代ビジネス (2011年8月17日). 2019年12月26日閲覧。
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