掲載時肩書 | 全日本婦人団体名誉会長 |
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掲載期間 | 1967/10/17〜1967/11/10 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1886/02/10 |
掲載回数 | 25 回 |
執筆時年齢 | 81 歳 |
最終学歴 | 津田塾大学 |
学歴その他 | 日本女子大、 二松學舍大学 |
入社 | |
配偶者 | 画学生5歳下 |
主な仕事 | 婦人解放と自我の解放・運動、青鞜発刊 、婦人参政権、婦人団体連合会 |
恩師 | |
人脈 | 高村智恵子(大学)、岡本かの子、野上弥生子、田村俊子、市川房枝、奥むめお、 |
備考 | 父会計 監査人 |
平塚 らいてう | |
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![]() 平塚らいてう | |
誕生 | 奥村 明(奥村 はる) 1886年2月10日 ![]() |
死没 | 1971年5月24日(85歳没)![]() |
墓地 | 春秋苑墓地(川崎市) |
職業 | 思想家、評論家、作家 |
国籍 | ![]() |
代表作 | 『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝』(1971) |
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平塚 らいてう(ひらつか らいちょう、本名:奥村 明(奥村 はる)、1886年(明治19年)2月10日 - 1971年(昭和46年)5月24日)は、日本の思想家、評論家、作家、フェミニスト、戦前と戦後にわたって活動した女性解放運動家。戦後は主に反戦・平和運動に参加した。日本女子大学校(現:日本女子大学)家政学部卒[1]、2005年(平成17年)に同大学は平塚らいてう賞を創設した[2]。
平塚は、特に、大正から昭和にかけ、婦人参政権等、女性の権利獲得に奔走した活動家の一人として知られる。結局、その実現は、第二次世界大戦後、連合国軍の日本における占領政策実施機関GHQ主導による「日本の戦後改革」を待たざるを得なかった[3]。しかし、1911年(明治44年)9月、平塚25歳の時、雑誌「青鞜」を創刊、創刊号に自らが寄せた文章の表題『元始、女性は太陽であった』と書いた。[1]。
なお、氏名表記は、漢字で「平塚 雷鳥」と書く場合もあり、さらに「平塚 明子(らいてう)」の表記で評論の俎上に上がることもある[4]。また、1908年(明治41年)3月、平塚22歳の時、塩原で、森田草平と心中未遂事件(塩原事件)を起こし、自らの名が広く知られると[5]、本名の「平塚 明(はる)」の名で活動するなど、時期によっても平塚の氏名表記は異なる。