市村清 いちむら きよし

精密

掲載時肩書理研光学社長
掲載期間1962/02/21〜1962/03/20
出身地佐賀県
生年月日1900/04/04
掲載回数28 回
執筆時年齢62 歳
最終学歴
中央大学
学歴その他佐賀中
入社大京銀行(上海)
配偶者医師娘
主な仕事独房、富国生命、理研感光紙独立、理研コンツエルン、理研工学のみ、富国工業、三愛主義、明治記念館
恩師・恩人竹崎八十雄(校長)、大河内正敏
人脈姉崎正治、柴田邦輔、藤原銀次郎、辻恒彦、吉田茂(明治神宮)、柳田誠二郎、郷古潔
備考祖父と牛飼育
論評

1900年4月4日 – 1968年12月16日)は佐賀県生まれ。実業家。リコーを中心とする「リコー三愛グループ」の創始者。「人の行く裏に道あり花の山」を座右の銘とし、常識の裏をかくアイディア社長として一世を風靡した。現在も銀座4丁目交差点に建つ、円柱・総ガラス張りの個性的な「三愛ドリームセンター」(1963年完成)も、元々は市村の「お客を動かさず、建物を回して商品の方を動かしてはどうか」との発想に基づくものである。晩年、技術革新のための研究開発助成を目的とした財団法人の設立を発案し、亡くなる直前の1968年12月12日に財団法人新技術開発財団(現・公益財団法人市村清新技術財団)の設立認可が下りた。同財団では市村の遺志を継ぎ、科学技術の分野で学術、産業の発展に貢献した個人・団体を表彰する市村賞を運営している。

1.保険勧誘9回目、人生の岐路
昭和金融恐慌の後、昭和3年(1928)に私は富国生命の九州支部で保険の外交員となった。11月、12月とはや60日が過ぎても一口も纏まらない。保険募集を始めて68日目に、精も根も尽き果ててとうとう私は妻の前でシャッポを脱いだ。「もうこれ以上、我慢がならない。東京へ夜逃げだ」というと、妻は「東京へ逃げるつもりなら、外聞何てどうでもいいじゃありませんか。一口も取らないで辞めるのですか」と詰問した。この一言に私は励まされ、大晦日までやる決心をした。
 9度目に行く人は私立大江高等女学校の竹崎八十雄校長さんであった。夜校長舎宅の呼び鈴を押す手がなかなか出ない。妻の昨夜の言葉を思い出し、勇気を奮って呼び鈴を押した。すると竹崎先生が出迎えてくれ「やぁ、よく来ましたね、待っていましたよ」と言われた。そして「あなたは今日で9度来られたが、今度こられたら入ろうか、と家内に相談していたところだった」と。
 私は仕事はあきらめてはいけない。最後の一押しが成否を決めるものだと、紙一重の差をそこで悟ったのだった。竹崎先生はその場で加入と同時に、五高の数学教授宛の紹介状を書いてくれた。五高の先生にも、勧誘の態度がきれいだと褒められ、翌日学校の方にも来るように言われた。それからはうわさがうわさを呼んで、次から次へととんとん拍子に契約ができていった。

2.利益三分主義
昭和4年(1929)は不景気のどん底だったが、理研感光紙九州総代理店を開業した。妻と二人では仕事をさばききれないので小僧さんを雇わねばならなかった。当時の使用人は高等小学校卒の16歳ですみ込み5円ぐらいが相場だった。
 初めて自分で人を使う立場になったとき、私はいろいろ考えた。私のように特別の学歴も人のつながりもないものが、今後伸びようとするには、結局従業員が心から協力をしてくれるか否かにかかっている。そのためには、彼らの待遇を物質的にも精神的にも他より優遇してやることが必要だ。そこで給料は他より6割高に、食事内容もわれら夫鬱と同じ、呼び方もXX君と呼び、妻には○○さんと呼ばせた。これで彼らが働かないはずがない。素晴らしい働きをしてくれた。
 私の経営方針は利益三分主義で、一は店員に、一は将来のため、残りの一を危険負担とした。

3.理研総帥・大河内正敏先生と喧嘩
大河内先生は権力、金力には強いが、お追従には弱いところのある人だった。殿様出だったからだろう。太平洋戦争開戦直後の昭和17年(1942)の新年宴会で、大河内先生は全重役を集めて訓示をした。「今後いっさいの方針は自分の独裁で決める。何も言わずに盲従してくれ、僕が突撃命令を下してもとやかく言うものは切って捨てる」と。私はすかさず「質問」と立ち上がった。
「突撃命令に異議はありませんが、今突撃すべきか否かについて進言することもいけませんか」「いかん!」と、先生は私を睨みつけて強い語調で言った。
「先生、あまり盲従(猛獣)、盲従(猛獣)しろというと、反対に食いつきますよ」と、私にしては一世一代のシャレのつもりで言ったのだが「貴様のようなやせぽっちで歯が立つなら食いついてみろッ」と先生は右腕を突き出して烈火のごとく怒った。
 私はもう先生との仲もおしまいと感じた。遂に意を決して12枚の辞表を揃えて提出した。

市村 清(いちむら きよし、1900年4月4日 - 1968年12月16日)は、日本実業家リコーを中心とする「リコー三愛グループ」の創始者。

人の行く裏に道あり花の山」を座右の銘とし、常識の裏をかくアイディア社長として一世を風靡した。現在も銀座4丁目交差点に建つ、円柱・総ガラス張りの個性的な「三愛ドリームセンター」(1963年完成)も、元々は市村の「お客を動かさず、建物を回して商品の方を動かしてはどうか」との発想に基づくものである。

産業界・学界で功労者を顕彰する市村賞にその名を遺す。

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